桔花

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・紅茶の香り
1、夜8時には寝る。
2、お姉ちゃんにわがままを言わない。
3、家の中で騒がない。
綾人が小学校一年生の冬、我が家に新しいルールができた。
遊びたい盛りの小学生には、苦しいルールだ。だけど、それ以上に嫌なのは、限界まで張り詰めた糸のような空気だった。
静かすぎるリビングで、綾人は顔を顰めながら宿題に向かう。
お母さんは黙って本を読んでいた。
『受験期の子供の支え方』
綾人にはその意味はよくわからない。
でも、そんなにしかめっつらをするなら、読まなければいいのにと思っていた。
息が詰まりそうな長い時間は、いつも突然、終わりを迎える。

「あー、お腹すいたー!マドレーヌ残ってたよね?食べていー?」

場違いに明るい声。どうやらお姉ちゃんの勉強はひと段落したらしい。
我が家はお姉ちゃん中心に回っている。もちろん、お母さんは嬉しそうに頷いた。

「はい。綾人にも」

にっこり。笑いかけられて、ありがとた。
お姉ちゃんのせいで貴重な冬休みが台無しなんだ。ちょっとくらい、困らせてやりたかったのに、お姉ちゃんは肩をすくめただけだった。…気に入らない。
綾人の気も知らないで、お姉ちゃんはすとんと、綾人の隣に腰を下ろした。
目の前の机に置かれたのは、マドレーヌと、紅茶のカップ。
紅茶には殺菌作用があって、風邪をひきにくくするらしい。お母さんがあんまりしつこく飲めというから、お姉ちゃんは毎日一杯は紅茶を飲む。
紅茶の香りは、つんと尖っていて、綾人はあんまり好きじゃない。…なんて、子供っぽくて言いだせやしないけど。
お姉ちゃんが淹れる紅茶は甘くて飲みやすい。匂いさえ我慢すれば、いけなくもないのだ。
鼻を近づけると、湯気が鼻をくすぐった。

くしゅんっ

それはとても小さなくしゃみ。でも、決定的なくしゃみ。お母さんが立ち上がる。

「綾人。こっちに来なさい」

0、風邪をひいてはいけない。
口には出さないけど、これが最も大切なルールなんだと、綾人は気づいていた。
***
天井の木目が、ぐるぐると回っていた。暑くて、寒い。
お姉ちゃんの受験日の二週間前、最悪のタイミングで、綾人は熱を出した。
たった一人、ベッドの上で、綾人は震える。
僕のせいで、お姉ちゃんのジュケンが失敗したら、どうしよう。お母さんは、怒るだろうな。
お姉ちゃんは?
どうしても、あの優しい笑顔で、笑ってくれるとは思えない。
もしかして、ちょっとお姉ちゃんを困らせたいなんて、願ってしまったせいだろうか。
…その発想はとても怖くて、綾人は逃げるように布団に潜り込む。
次に起きたのは夜だった。
部屋の机には、湯気を立てるうどんと…紅茶を乗せたお盆。
紅茶?
カップのそばには、一枚のメモ用紙があった。

『はやくげんきになりなよ』

鼻をつくのは、つんと尖った香り。
口をつけると、それはふわりと甘さに姿を変える。

10/27/2023, 2:58:19 PM