郡司

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私だけ

「私だけ」って、いろいろあるね…さて……

私という者の内外を、意識的にせよ無意識的にせよ、「見る」のは、基本的に私だけ…と、以前は思っていた。人間とは分離分割した個別意識を持って、どこまでも「ひとり」だと。昭和の頃に周りの大人たちがたまに言っていた、“人間はひとりで生まれてひとりで死ぬ”という言葉の響きも、「私を知るのは私だけ」なんて暗示につながったかもしれない。

ところが、現在の私の近くには、他人の経験した事象を複層レベルまで体感を伴って見通してしまう者もあれば、他人の感情の色が見えたり頭の中の言葉が聞こえてしまう子もある。両者とも周りの人のいろいろな波動を自分自身の認識フィルターに通過させて知覚するのだが、厄介なことに「見ようとして見る」のではなく、「いつもそのように見えてしまう」のだ。これは、存在として誰もが持ち合わせるポテンシャルのひとつなのだが、「人間の知覚・感覚とはこんなもの」という、物理的知覚が主体の集団的汎用テンプレートにはまらないので、ストレスになる。「どんな認識の仕方をしているか、本当のことを他の人に話したところで通じないし、だいたいそんなことに誰も興味ないだろうし、不気味がられるのがオチだ」と諦めてしまうので、自分自身の知覚・感覚がおかしいのかまともなのか、測るための情報も得られないまま、不安感を抱え込む。

結論から言えば、その知覚・感覚はおかしくなどない。知覚レンジが広い状態なのだ。もともとの資質として知覚レンジが広く、物理的知覚に引っ掛からないはずのものを知覚する人は、存外に多いのではないかと、近年ますます思うようになった。「神経系に作用する薬(病院処方薬)とか、それこそ何かキめてるから変なものを見聞きしたりするのでは?」というツッコミもあることだろう。神経系に作用する薬は、認識のフレームの一部をはずす働きをする。すると、知覚レンジは広がる。人間の知覚・感覚は人それぞれの状態なので、そもそも「そんなわけない、頭がおかしいんだ」と決めつけるのは早計に過ぎるのだ。

自分に見えているもののうち、誰とでも共有・共感できるものもあれば、それが難しいものもある。状態に関する本質を突いた情報や知識が少ないことも、ままある。この世にひとり、わけわかんない場所に取り残されたような心細さや寂しさで心がつぶれそうになる人は、私の見る限り、少なくない。

私は、「私だけ…?」に不安が迫るとき、「なぜ、何がどうなってる? これの答えは何だろう?」と、“自分の真実”を求めることにしている。必ず次への間口は見つかる。大丈夫だ。

7/18/2024, 1:35:54 PM