海の底で
僕は、海の中に漂う精霊の一人だった。クリオネのような小さな姿をしていて、いつ消えてもおかしくない深海を生きていく小さな命の一つ。何も思うことなく水底で、ゆらゆらと海月のように、眼前を泳いでいく魚たちを見つめていた。
「君は知っているかな。この暗い海の上、水面の向こうには暖かな橙と暗い青を混ぜ合わせたような物憂を帯びた美しい空があることを」
「……知らない」
ある時、とても綺麗な人がそんなことを言ってきた。長い水色の髪にシンプルな白いドレス。澄んだ青い瞳を持った彼女は、後に海の魔女と呼ばれる彼女は当時、セイレーンという海の魔物だった。
「君、セイレーンでしょ。どうしてここにいるの。僕のような精霊を気にかけてどうしたいの」
「うーん……そうだなぁ。寂しそうに見えたから、それでは理由にならない?」
僕を手のひらに乗せて、指先で頭を撫でてくる。その青い瞳はとても優しそうに、愛おしいものを見るように細められていた。
「……寂しそうだったとしても、僕はそう長くは生きていられない。君とお別れをしたら、多分直にこの暗い海と一つになる」
僕の言葉に彼女は優しく笑った。
「なら、私と契約を交わしてよ。君に人魚の姿をあげる。代わりに君はずっと私の側にいるんだ」
「どうして……」
「私が寂しいんだよ。君みたいな子が側にいてくれたら、この先の命も楽しめると思う」
「……」
僕は少し考えた後、ふよふよと泳いで彼女の眼前に立つ。
「なら、君がさっき言った空を見せて」
「空?」
「セイレーンなら水面まで泳げるでしょ?僕たち精霊は移動するだけでエネルギーを使うんだ。その分、寿命も短くなる。だから、生まれたら生まれた場所から動くことはまず無いよ」
「その空を見せたら、側にいてくれるの?」
「……約束は守る」
僕の言葉に彼女はふわりと笑った。あどけなさの残る可愛らしい笑顔だった。彼女は両手で僕のことを包み込む。
「こっちだよ」
彼女の足が美しい青色の尾鰭へと変化し、水面へ向かって上へ上へと泳いでいく。しばらくして、ざばりと水が消えた。僕の頭上には、深海とはまた違った暗い青が広がっている。そして、その中にぽかりと丸い何かが浮かんでいる。
「君の上にあるのは夜の空。深海とはまた違った暗いものだよね。そして、そこにぽかりと浮かぶのは月と呼ばれるものだよ」
「これが……空」
その時の衝撃は今でも覚えている。とても綺麗なものだった。どんな言葉にも形容しがたい、見ていると物悲しくなり、幻想的で美しい空が。
「……綺麗」
「そうでしょ?それからね」
彼女は呪文を唱え、僕の頭に再度口付けを落とした。すると、僕の身体に変化が起こる。視線を落とせば彼女と同じ青い尾鰭を持ち、彼女よりもしっかりした手と腕があって、胴体がある。手で顔と思しき場所を触れば、感触があった。
僕の姿を見た彼女は恍惚とした表情で呟く。
「君はその姿でも綺麗だね。人魚の姿を与えて正解だったよ」
「僕が……人魚に?」
信じられなかったけれど、僕の姿は彼女と似ていた。ほんの少しだけ違うのは体格と髪と瞳の色。
「今はセイレーンだけれど、私は近いうちにこの海で最も力を持つ魔女として名を馳せる。その時にずっと君が側にいてくれたら、嬉しいんだけど」
はにかんだ様子の彼女を僕は気がついたら抱きしめていた。この手で彼女を抱きしめることが出来る。彼女はとてもあたたかった。心臓の音が聞こえた。
彼女の為に、尽くしたいとそう思った。
「側にいるよ。そういう約束だから。だから、魔女様も僕の側にずっといてよね」
それが、海の小さな命の一つだった僕と魔女様のはじまりだったんだ。
2/25/2024, 1:15:56 PM