何もいらない
通勤鞄の奥底から出てきたのは、何年前に買ったか分からないような今の趣味とは違う花柄のキーケース。ここ数年出番が無かったのは、わざわざ家に帰るたびにキーケースを探るのが面倒で、家の鍵と自転車の鍵だけ束にして上着のポケットに入るようになったからだ。実家の鍵やら何やらその他の諸々の鍵も取り出したはずだから今はもう空だろう。なんとなしに開いてみたら、一番右の列に小さな黒の鍵がかかっているのが見えて一気に胸を締め付けた。あぁ、そうだ。返すのを、忘れていたんだっけ。
久々の口喧嘩は日に日にヒートアップして、ついには自分の方から家を出た。彼の前で、素面で泣いたのは後にも先にもあの一回だったっけ。彼がいないところでは幾度となく流した涙を思い起こして、条件反射のように鼻の奥にじんわりと嫌な味がした。分かっていたはずだったのに。涙を流すのも、言い返すのも、全部駄目だって。彼は面倒な女は嫌いで、私がそのポジションを割と長い間務められたのも我儘を言わなかったからだって。家を出て次の日も仕事で休めるわけは無くて。忙殺されそうな身体とボロボロの精神で周りに心配されるぐらいに顔を腫らして。2日も続いてこれはいい加減断ち切らなければとやっとの思いでLINEをブロックしたんだっけ。
これ、どうしよう。キーケースから外すこともできずに机の上に置いたその小さい鍵を睨みつける。鍵って、普通に捨てていいんだっけ。なんか防犯上駄目なんじゃ…てかそんな後味の悪い別れ方をした奴の防犯なんて考えなくても良いんだろうけど。もうあそこ引っ越したのかな。合鍵無くしたって言って大家さんとか管理会社の人に怒られたりしたのかな。久々に思い出したはずなのに鮮明にその金髪の綺麗な顔を描けていることに自分でも驚いた。あぁ、でもそうか。ごく偶に、未だに夢に見るもので。まだ幸せを感じていた頃の、あの美化されたはずの甘い記憶を反芻しながら、潤んだ目で起きて現実へと引き戻されるという最悪な寝起きは別れてから何度もされていたっけ。
じっと黒と金属のその塊を見ているうちに、恐ろしいことに気づいた。あることを検索してから震える指でその緑のアプリを開く。「設定」から「友だち」を開いて、現れた「ブロックリスト」。通知が鬱陶しくなってブロックした公式LINEばかりの中に埋もれていたあの名前。懐かしいアイコンを見てじんわりとまた涙が滲む。トーク画面の一番上に固定されていたはずの金髪も落ちぶれたものだ。完全に消したつもりでいて、それでも消しきれずに残っていたのはあの時の呪縛だ。考えあぐねてその金髪を選択し、ブロック解除を押す。あっちだってブロックしているかもしれないし、届かないかもしれない。もし届いても無視されるかもしれない。
もう今は、何もいらない。舞い上がっちゃうほど嬉しかった鍵だって、返してあげる。
4/21/2026, 10:00:34 AM