『雫』
白銀の鎧を纏う騎士が黒い馬を操り荒野を駆ける。
王都近辺の森まで来ると、歩みを止めた。
「へシアン!」
不意に誰かが自分を呼び止める声がした。
金色の髪を持つ美しい乙女が
こちらへ駆け寄ってくる。
木々の間から差しこむまばゆいばかり
の黄金の光が、乙女をそっと照らす。
へシアンはその姿に目が眩んだ。
「姫様」
それは、とある事情から王城ではなく
この森で暮らす王女リディルの姿であった。
「まあ、どうしてここに?」
彼女は花が綻ぶような笑顔を見せたかと
思いきや、突如、顔を曇らせた。
彼の腕から滴り落ちる赤い雫を
見逃さなかったのだ。
「へシアン!貴方、怪我してる」
「ただの切り傷ですので、お構いなく」
「ダメだよ。傷を放っておくとそこから
悪い精霊が入ってきて、命を落として
しまう事もあるんだから」
へシアンはリディルに半ば強引に連れられて、
小屋までやって来た。
きれいな水をバケツに汲んで持ってきた
リディルはへシアンの傷から滴る
血を洗い流して、腕に包帯を巻いた。
「申し訳ございません、姫様」
「いいのよ!それよりも
あまり無理はなさらないでね」
「……承知いたしました」
暫くすると、今度は彼の愛馬を近くの
小川まで連れて行った。
疲れきった馬は、むさぼるように水を飲む。
リディルは、愛情をこめて黒馬の鼻先を撫でてやり、
体を草で拭いてあげながら、へシアンに問いかけた。
「兄さんは元気にしてる?」
「……近頃の殿下は、食事も睡眠もあまり
取られず、芳しくないご様子です。
国王が病床に伏せられてからずっと 」
「やっぱり、そうなのね……。以前お会いした時
よりも、やつれて顔色が悪かったもの」
リディルはそっと目を伏せた後、
澄んだ瞳で騎士を見上げた。
「へシアン、兄さんは貴方の事を
とても信頼しています。
だから、貴方が常に傍にいて支えてほしいの。
わたしはあの人の傍にはいられないから……」
「姫様……」
リディルはへシアンの手を掴んで
ぎゅっと握り締める。
「お願いへシアン。兄さんにも、貴方にも
無事でいてほしいのよ。
健やかに生きてくれたらそれだけで十分なの」
その言葉は祈りの様にも思えた。
ずっと抱え込んできた想いを打ち明けた事で
リディルの視界は霞み、頬に一筋の涙が伝う。
へシアンは、はっとして息をのんだ。
その雫を拭おうと手を伸ばしたが、
既のところで止めた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
城へ辿り着いたへシアンは、
主の前に跪き恭しく頭を垂れた。
「竜の雫を取り戻しました」
「ご苦労であった、へシアン」
ドレイク伯爵は彼の働きに満足気に頷いた。
近衛騎士団長へシアンには忠誠を誓う主が二人いる。
一人はこの国の王太子、
もう一人は目の前に立つこのお方。
「偶には比奴にも血を吸わせてやらんとな」
伯爵が己の瞳と同じ色を持つ赤い宝石を掲げると、
それはシャンデリアの煌めきを浴びて妖しく光った。
竜の雫
かつてこの地を支配していた竜が王家の先祖である
勇者に女神の剣で貫かれる際、瞳から流したとされる
古の宝石
竜の血が流れていない者が手にすれば
災いが降りかかるという呪われた石だ。
たった一滴の雫には様々な想いが込められている。
苦悶、憤怒、恐怖、悲哀、自責の念 ────
ふと彼は、
森で出会ったリディルの姿を思い出した。
家族のため、そして自分のために
涙を流してくれた優しき姫。
彼らを欺き、偽りの忠誠を向ける己に
彼女の涙を掬う資格などない。
騎士は心の中で自嘲して、頭を垂れたまま
大理石の床を静かに見つめていた。
4/21/2024, 10:35:05 AM