潮騒の響く真っ暗な海。
思考の海と呼ぶ場所。
光の差さないこの海には、物語にもならず消えた多くの言葉が眠っている。
ここは、言葉の生まれる場所であり、言葉の墓場ともなる場所だ。
言葉を変えれば、そのように定義付けた空間とも言える。
私にとって思考の海とは本来、言葉の練習と過去を癒す──ナラティブ・セラピーの実験場でもあった。
思考の海の番人を主人公とする物語がそれだ。
しかし、彼を通して紡いだ物語は──核心部を明かさず、現在は後日譚のような形になって続いている。
核心部に触れなかったのは、ナラティブ・セラピーの実験を止めたからだ。
ある程度の言語化で、過去の一部は癒されたと判断した私は、思考の海をただの物語の舞台とすることにした。
思考の海がただの物語の舞台となって、物語のキャラクター達が個性を持ち始めたある日、思考の海は再び変化することになる──。
ここで多くの物語が生まれた。
あまりにも沢山の思い出が詰まりすぎて、語り尽くせない程だ。
けれど、ここがあったから、沢山の心を学び、自身を解放することが出来た。
今日もここは、潮騒が響いている。
けれど、寄せては返す波の音の中にいつもとは違う音が交じっている。
重たい車輪の音と蒸気を吐き出す音だ。
音のする方へ顔を向けると、一筋の強い光がこちらに向かってくるのが見えた。
目を凝らしよく見ると、それは客車を連結した蒸気機関車だった。
いつの間に出来ていたのだろうか。海岸線に沿うようにレールが敷かれている。
そのレールの上を蒸気機関車が堂々と走っている。
ジョイント音を響かせ、蒸気機関車がこちらに向かってくる。
「…待っていたんだよ」
そう呟くと、蒸気機関車は大きなブレーキ音を立て、蒸気を巻き上げながら少し離れた場所で止まった。
等間隔に並んだ窓からは、柔らかい光が漏れている。軽い蒸気音と共に客車のドアが開く。
私は、光溢れる車内へ足を踏み入れた。
車内はリノリウムの床が広がり、緑色のビロードが張られたボックス席が並んでいる。
広い車内には、自分以外誰も乗っていない。
煤が入らないようにする為か、ボックス席の窓は全て閉まっている。
出入口にほど近いボックス席の一つに腰掛けると、
汽笛の鋭い音がした。
ガタンという大きな揺れの後、汽車が動き始めた。
窓の向こうでは、思考の海が遠ざかり、潮騒の音も
遠のいていく。
新しい旅が今始まった。
────────────────────────
一筋の光
11/5/2024, 2:59:48 PM