結城斗永

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またもボリュームが大きくなって前後編に分かれてしまいました。
少し長いですが、どうぞ最後までお楽しみくださいませ🙇
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【雪幻の夜市(前編)】

 雪の降る夜になると、直哉の胸の奥はきしむように痛んだ。
 志乃が山道の崩落に巻き込まれて命を落としたあの夕暮れから、現し世はどこか薄い膜を隔てた向こう側の景色のように思われていた。それがよりにもよって、自分が頼んだ遣いの帰りであったという事実は、氷の刃となって喉の奥に刺さりつづけている。

 あのとき、今日でなくともよいと言えたなら。
 雪がやむまで待てと、ひと声かけられたなら――。
 どうあがいても過去は戻らぬと知りながら、叶わぬ想いばかりが雪片のごとく胸の底へと降り積もっていく。

 隣の部屋では、母が静かな寝息を立てている。
 最近はめっきり食も細り、床に臥す日も増えた。直哉は仕事から戻れば茶を淹れ、薬を飲ませ、手足を摩ってやる。そのあいだは幾ばくか志乃のことを忘れていられるのだが、夜更けに床へ入れば、しんとした冬の静けさが胸の堰を切り、抑えていた想いがあふれ出してやまない。

 ――家にいると、息が詰まる。
 直哉は外套を引っかけると、逃げるように戸口を出た。行くあてもないまま、白く塗りつぶされた坂道を下を向いて歩く。足音は雪に吸い込まれ、世界の音が遠のいていくようであった。

 どこかへ辿り着きたいという思いと、どこにも辿り着かなくてよいという諦めが、同じ場所でゆらゆらと揺れている。
 このまま歩き続けてしまえば、いっそ楽になれるのかもしれぬ。そんな危うい囁きが、胸の内で形を帯びはじめていた。

 どれほど歩いたころであったか。
 さらさらと、水の流れる音がした。

 雪深いはずの山間で、耳に馴染まぬ音である。直哉は顔を上げた。
 目の前に、見覚えのない川が横たわっていた。淡い雪明かりを受けて、水面だけが黒く揺れている。

 ――あそこが、いい。

 そのようなことを考えながら、その意味までを、直哉は深く追及しようとはしなかった。ただ、あの水の冷たさの中へ身を沈めてしまえば、胸に巣くう後悔も痛みも、ようやく静まるのではないかという感覚だけが、ぼんやりと灯をともした。

 川へ向けて一歩を踏み出した、そのときである。
 風が、突如として吹き上がった。雪は一斉に舞い上がり、視界は白い渦に飲まれる。直哉は思わず外套の袖で顔を覆った。

 風が凪ぎ、辺りがしんと静まり返る。
 直哉がおそるおそる顔を上げると、川のせせらぎははるか遠くに聞こえ、雪原のただ中に、提灯の灯りがいくつも浮かんでいた。
 小さな露店が細い路地のように並び、その一軒一軒から柔らかな光と、かすかな湯気のようなものが立ち上っている。どこか縁日のようでいて、しかし喧騒というものがまるでなかった。

 近づいてみると、店先には白い影がひとつ立っていた。輪郭だけは人の形をしているが、顔立ちは霞のように曖昧である。その影が、小瓶を一つ差し出した。

 蓋を少し開けると、甘やかな香りがふわりと立ちのぼった。
 志乃の香りであった。

 抱きしめたとき、胸もとにそっと残った、あの微かな匂い。
 最後の日、外套の襟を直してやったとき、うなじのあたりからふわりと漂ってきた香り。その一瞬の温みまでが、鮮やかに蘇る。

 胸の内側を、焼けた手で握られたような痛みが走った。
 志乃の笑い声、冬の日溜まりの中で並んで歩いた道、他愛もない言葉のひとつひとつが、香りに引き出されるように立ち上がる。

 いつの間にか、直哉の足は夜市の奥へと向かっていた。

 少し先へ進むと、露店の店先に小さな石の指輪が一つ、淋しげに置かれていた。古めかしさのある素朴な銀色の輪である。指を触れた途端、胸の中に別の声が満ちた。
 ――直哉、帰っておいで。
 母の声であった。

 幼い頃、凍える夜に毛布をかけてくれた大きな手。
 最近はその手もやせ細り、箸を持つ指の力も心許ない。それでも、こちらを見上げるときの笑顔だけは直哉の幼い頃のままのように思えた。
 ここまで育ててくれた恩。弱りつつあるその肩を、今度は自分が支えねばならぬはずである。その思いが、指輪の冷たさに触れた掌の内側から染み出してきた。

 直哉の足は、夜市の入口の方へふいに引き戻されるようだった。
 夜市の奥に感じる志乃の気配と、入口の薄明かりに漂う母の面影が、どちらも彼を呼び止めている。
 生と死のあわいで、心がふらつく。
 雪の冷たさだけが、かろうじて身体をこの側につなぎとめていた。

 そのとき、耳の後ろで細い音が一筋、雪の夜気を震わせ、直哉は思わず息を呑んだ。確かに聞き覚えのあるその音に、直哉の心は強く引き寄せられていくのだった。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
【雪幻の夜市(後編)】

 雪原の静けさを裂くように、その音はたしかに響いていた。
 遠くとも近くともつかぬ、澄んだ旋律。風に触れながらもかすれぬその響きは、直哉の胸の奥に眠っていた記憶を、そっと指先で撫でるように揺らした。

 オルゴールの音色。
 志乃が好んだ、あの優しい調べに似ている。

 直哉は無意識のうちに足を前へ運んでいた。
 石の指輪の温もりはまだ掌に残っている。だが、その温もりよりも強く、音色の方が彼を引き寄せる。

 露店の列の奥、白い影が小ぶりな木箱の蓋を静かに開いていた。
 そこからこぼれ落ちる音の粒ひとつひとつが、直哉の心のひだを淡く照らし出す。

 志乃と過ごした冬の夜が、音色とともに甦る。
 肩を寄せあい、布団の中で聴いた微かな調べ。
「この音、胸が温かくなりますね」と照れたように笑った志乃の横顔。

 直哉はオルゴールを手に夜市の奥へと歩みを進めた。緩やかな下り坂が自然と直哉の足取りを速めていくようだった。 
 目前の川では、提灯の灯りが川面に揺れ、対岸には、のれんのかかった宿屋のような建物が見える。
 ふと、川の向こう岸に、人影が一つ立っているのが見えた。

 雪ごしでも、その佇まいは志乃のものに違いないと直哉には思われた。
 肩の線、髪の揺れ方、両手の組み方。輪郭こそ朧げだが、未練がふくれあがるほど、その形は少しずつ確かになってゆく。

 直哉は、吸い寄せられるように川べりへ歩み寄った。
 水音が、足もとで細かく跳ねる。
 あと一歩で、冷たい流れへ足を踏み入れられるところまで近づいたときである。

 握りしめていた石の指輪が、掌の中でふっと温もりを帯びた。

 ――直哉。

 遠くで、母の声がしたように思えた。
 その声が、川のせせらぎにはっきりとした輪郭を与え始める。
 いまも志乃の影は、向こう岸で静かにこちらを見つめている。呼ばれているようでもあり、見送られているようでもあった。指先を伸ばせば、その腕に触れられるのではないかという錯覚が、胸を締めつける。

 一歩、前へ。
 いや、と直哉は思い直した。

 ここで足を踏み入れれば、志乃に会える代わりに、母のもとへ戻る道を、自ら断つことになるのだろう。そう理解した瞬間、足がどうしても前へ出なかった。

 ​直哉は、ゆっくりと後ろへ下がった。
志乃の姿は、雪の帳の向こうで、やはりその場を動かない。呼びかけることも、手を振ることもない。ただ静かに、直哉の選択を見守っているようだった。
 ​川のせせらぎは、現実の音として耳に響きながらも、遠くで鳴るオルゴールの旋律と、奇妙なほど調和していた。
 ​直哉が、握りしめた指輪を胸元に当て、大きく息を吐き出した、その一瞬。
 夜市の奥、露店から立ち上っていた柔らかな光が、一つ、また一つと、蝋が尽きるように力を失っていく。
​ オルゴールの音も、巻かれたぜんまいが尽きたように、途切れ、やがて完全に沈黙した。
 ​強く吹いた風に雪の粒が舞い上がり、世界が再び白い幕に包まれる。直哉は外套で顔を覆った。

 風がやんだとき、先ほどまでの夜市の灯りは跡形もなかった。
 しかし、川の流れる音だけは、背後の暗がりの中でなお続いている。
 振り向けば、あの水面がまた見えてしまうような気がして、直哉はあえて前だけを見て歩きだした。
 遠くに見える村の灯り。その中で彼を待つ母のために。

 あの夜からしばらくの時が経ち、直哉の生活は普段どおりに戻りつつあった。
 朝になれば起き、仕事へ出かけ、帰れば母の手伝いをする。茶を淹れ、薬を飲ませ、床に入る。そうした営みの一つひとつが、細い糸のように直哉をこの側へ繋ぎとめているのだと、頭では分かっている。

 それでもふとした折に、あの夜市のことを思い返すことがある。
 冬の街角で、見知らぬ女の纏った香水の奥に、志乃の匂いがかすかに香るとき。
 古道具屋の前を通り、擦り切れたオルゴールの音色の陰に、志乃の囁きが僅かに混じるとき。
 胸の奥では、あの雪の夜の灯りと川の気配が、ひそやかに息を吹き返すのであった。

 もしあの夜、もう一歩だけ前へ出ていたなら――。
 自分は川を渡り、志乃の腕の中で、冬の冷たさも痛みも忘れていたのだろうか。

 そう考えてはならぬと思いながらも、直哉はなお、川の向こうを想像してしまう。志乃が微笑み、抱きとめてくれる姿を。現し世の雪とは異なる、どこかあたたかな白の中へ沈んでゆく自分を。

 あの夜の灯りと川の気配は、いまも直哉の胸の内に消えずに残っている。
 いまも隣で眠る母を置いて、あの雪原へ足を運びたくなる衝動を抑え、深々と降る雪の音を聞きながら、直哉は静かに目を閉じ床につくのだった。

#雪原の先に

12/9/2025, 1:36:13 AM