ここではないどこか
「お前はもう、どこへも行けない。ずっと此処にいるしかないんだよ」
ずっと昔に自分が言われたその言葉を、やっとの思いで吐き出した。それでも気分は全く晴れなかった。
病室を出た途端に崩折れそうになったのを、彼が支えてくれる。
ええ、大丈夫です。色々ありましたから、ショックも大きかったんでしょう。どこか、できれば外で休める場所は…
気がついたら中庭のベンチに座っていて、彼が側にいた。丸いトレイにプラスチックのカップが二つ、紅茶が湯気を立てている。
「看護師さんからいただきました」
彼の声を聞いて、お茶を一口飲んだら少し落ち着いた。
「さぞや悲劇的な光景に見えただろうね」
名の知られた貴族の男性が正気を失い、訪ねてきた義弟を殺そうとした挙句自殺を図った。脳に大きなダメージを受けており、今後はあの鍵のかかった部屋が彼の全世界になるだろう。気の毒に。それが世間に出ている筋書きである。
実際には、血の繋がらない弟を異様に「可愛がった」その男が、ささやかな報いを受けたに過ぎない。
母が義父と再婚したのは自分が七歳の時で、結婚の条件は自分の医療費をすべて負担することだった。自分には変わった持病があり、身体の成長が途中で止まってしまっている。
背は子供より大きく、なぜか声だけは低くなった。だが未だに髭すら生えず、成人男性の性機能は備わっていない。
義父は善良な人だった。母を、そして自分を大切にしてくれた。不利益を被らないように自分を正式な養子にしてもくれた。
それが恐ろしいことだと分かったのは、大学の休暇であの男が帰ってきた時だった。
何が起きているのか母に知られたその夜、母は「事故」で死んだ。
「あの階段を踏み外して死ぬ、には相当な外力が必要です」
証拠は何もない。ただあの男は薄い唇に笑みを浮かべてこう言った。
『お前はもう、どこへも行けない。ずっと此処にいるしかないんだよ』
自分たちには共通点が二つあった。
恋愛の対象が女性ではないこと。
性機能に問題があること。
あの男にとって、「決して大人にならない義理の弟」は理想的な「可愛い子」だった。
義父に頼み込んで全寮制の学校に入り、可能な限りの早さで社会に出た。それでも、呼び出されると怖くてたまらなかった。
囮捜査の一環だと嘘を吐いて、彼をあの屋敷に連れて行った。彼はあの男が一番苦手なタイプだ。素朴で純粋で、人を苦しめることなど考えつかない。
就寝前になったら私の部屋に来てほしい。私は今身近に問題を抱えていて、自分を監視している人間を特定する必要がある。ちょっと見苦しいものを見せたり無礼な要求をするかもしれないけど、どうしても助けてほしい。
「ご指示通りにします」
非常に魅力的な申し出だが、今は調子に乗る訳にはいかない。
あの男がドアを開けた時、ベッドには彼がその体躯を見せつけるように横たわっており(我々の名誉のために言うと、ちゃんと下着とズボンは身につけていた)、その横に私が裸で寝そべっていた。背中にはあの男がつけた傷が今でも残っている。
「汚いでしょ」と言った時、彼はただ「痛かったでしょう」と言ってくれた。
奴が拳銃を持って再登場した途端、彼が私に覆い被さったので、どさくさに紛れて撃ち殺すという密かな望みは果たせなかった。
彼が一発撃たれたのは許しがたいが、「これで正当防衛です」と言ってくれたので、遠慮なく銃を持った手を撃ち抜いた。
「あなたは恥ずべきことをしてきた。その報いを受けるべきです」
人を殺そうとして自殺を図る人間はいつも生き延びるが、やはり利き手を撃たれると自力で死ぬのは難しいらしい。
彼は私にきちんと寝間着を着せ、自分も着替えた上で所轄に連絡してくれた。その間の応急処置が彼にしてはおざなりだったと思うのは、多分自分の願望だろう。
「私を軽蔑する?」
「いいえ」
「汚いと思う?」
「思いません」
ただ、とても傷ついているんじゃないかと思います。
たった今別れて来たあの男と自分の共通点をもう一つ見つけた。認めたくはないが、欲しいものを手に入れようとする意志だ。
「君の私に対する印象は前と変わった?」
「辛いという言葉では表せないようなことがたくさんあったんだろうなと思います。ですが、あなたの人格に対する印象は変わりません」
君がもし嫌じゃなかったら、本当に嫌じゃなかったら、私はあの邸や鍵のかかった部屋とは違う所へ行ける気がする。ずっと憧れていただけの、ここではないどこかへ。
6/28/2024, 2:44:55 PM