すゞめ

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 スニーカーに片足を突っ込んだ彼女の背中に声をかける。

「忘れ物ですよ」
「え? ……えぇー……」

 振り返って俺の手元を見た瞬間、彼女の顔がシワクチャになった。

「こんな格好でこんなん持ったって似合わないよ」
「似合う似合わないの問題じゃないでしょう」

 なんの変哲もないシンプルな黒の日傘である。
 今や安全メットと空調服を身につけた工事現場のオッサンが、新人に折りたたみ日傘の使い方をレクチャーする時代だ。
 かわいい子がボーイッシュな格好で日傘を待ったところで特に違和感はない。

「こっちのほうがよかったですか? 俺のイチオシです」
「……そ、れは……」

 忍ばせていたもう一本の日傘を見せる。
 持ち手が木製で、生地にレース刺繍の入った白い日傘だ。
 内側の薄紫の生地にはアプリコットがプリントされている。

「お気遣いどうもありがとう……」

 お礼を言ってくれたから白い日傘を受け取ってくれるかと思ったら、手に取ったのは黒いほうだった。

 そうか……。

 残念ではあるが彼女をこれ以上、引き留めるのは忍びなかった。
 気を取り直して彼女を送り出す。

「では、気をつけて行ってきてくださいね?」
「ん。行ってきます」

 目元を和らげて微笑む彼女に胸が鳴る。
 だが、気合いの入った隙のないメイクを崩す勇気は出なかった。
 首筋に、いつもより長くキスをする。

 牽制用の跡は残させてくれないから、いつものシトラスの香りの上から、少しでも濃く強く俺の体温をすり込んだ。

「ね……、長、い」

 簡単に震える指先で、彼女は俺の胸を押し返す。
 きっと少し速くなったであろう心音を暴きたい欲を抑えて、彼女の右手を絡め取った。

「ちゃんと俺を意識しておいてくださいね?」
「バカ……」

 冗談めかして指に唇を落とせば、かわいらしい悪態が返ってくる。

「もう、行く……から。これ以上は、……ダメ……」
「……」

 言葉を絞り出した彼女の唇はきつく結ばれ、熱を持った瞳を揺らした。
 戸惑いがちに震えた手は縋るように俺の服に皺を刻む。
 本当に、これで出かける気があるのだから驚きだ。

「……であれば、少なくともそのえっちな言い方はやめたほうがいいと思います」
「んなあっ!?」

 ひとまず言葉足らずだけを指摘する。
 声をあげる彼女にかまうことなく肩を掴み、体の正面が玄関に向くようにひっくり返した。

「ほら、そろそろ時間に間に合わなくなりますよ?」
「自分でけしかけておいて……」

 ぶつぶつ文句を言いながらも、彼女は促されるまま家を出ていった。

   *

 夕方にはわずかに早い時間。
 予定していた帰宅時間より1時間も早く帰ってきた。
 なにかトラブルでもあったのか、ひどく不貞腐れている。

「おかえりなさい。早かったですね?」
「……ねえ、わざと?」

 唇を尖らせている要因は俺らしかった。
 身に覚えしかないから一旦ごまかしてみる。

「なにがですか?」
「日傘……」
「あぁ」

 そっちか。
 暇を持て余しすぎて15分おきに愛のメッセージを送りつけたことではなかったらしい。
 日傘の違和感に気づいてくれるとは思わず、つい目元を緩めてしまった。

「ちゃんと差してくれたんですね?」

 日傘にジェラシーをひと振り忍ばせたことを、彼女は気づいてくれたようだ。
 しかも帰宅して気が緩んだのか、彼女は本格的に照れている。

「もしかして、少しドキドキしてくれたりしましたか?」
「だ、だって。外ではこんな……近くない、し……」

 自分の唇に指を当てがう仕草はひどく蠱惑的だ。
 ギュ、と胸をきつく締めつけられる。

「キスも……」

 行きがけにキスをしなかったのは、彼女がおろしたてのリップをさしていたからだ。
 妖艶に乗せた赤を崩す代わりに、焦らすように首筋にキスを置く。
 俺をもっと意識してほしくて、手渡した日傘の内側に、俺が使っているコロンをひと振りしたのだ。

 鈍い彼女がここまで意識してくれるとは思わずに、自然と口元が弛緩する。

「我慢できなくて、帰ってきちゃったんですか?」
「そういうことでは、ない」

 まだ素直になりきれない彼女をどう焦らしていこうか下心と相談しようとしたとき、彼女がわずかに俺との距離を詰めた。

「……けど、友だちと別れたあと……急いで帰ってきたのは、そう……」

 視線を逸らして歯切れ悪く紡いだ彼女の本音に、ゾクゾクと背筋に昂りが走る。

「じゃあ、それ。もう崩してもいいですか?」

 赤く引かれた唇の輪郭に触れないように肌に触れた。
 泳がせた視線は交わることなく伏せられる。

「いいよ……っ、あ……」

 うつむき加減でうなずいた彼女のあごをさらって、唇を重ねた。
 朝から時間をかけて煮詰めた彼女の唇は熱を持って柔らかい。

 丁寧に日々を過ごして月をまたいだ。
 昼も夜も蒸し暑く、過ごし方も装いもなにひとつ変わらない日常。
 それでも、カレンダーの日付だけは着実に夏の終わりを告げていく。
 置き忘れた夏を取り返すように、彼女の熱を求めて、奥深くまで探っていくのだった。


『夏の忘れ物を探しに』

9/2/2025, 12:51:11 AM