柔良花

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ひとつだけ願いが叶うなら、どうか私のことは忘れてください。
 そう人魚は悲しそうに呟く。目の前の相手――歳若い漁師とは違う、藍色の鱗のついた尾をゆっくりと揺らせば、飛沫が月の光に反射して涙のようにきらきら光った。

 
 人魚と漁師の出会いはほんの偶然だった。漁師がいつものように小舟で海へ漕ぎ出して、夜の漁へと出かけた先での事。大小様々な魚の中に傷だらけの人魚がひとり、紛れ込んでいたのだ。
 人魚を捕まえた者には幸運が訪れる。漁師の住む町にはそんな噂話があった。けども漁師は迷わず人魚の手当をした。それはきっと、目の前にいる人魚の姿があまりにも痛々しかったからだろう。傷薬を丹念に塗り、服を破って作った包帯を巻き付ける。出来ることはそれだけだったけども、人魚にとって、それはどんな宝物よりも嬉しいことだった。
 拙い手当てが終わり水中へ戻った後も、人魚は漁師のことをずっと考えていた。マメだらけの少し白い手のぬくもりと「ありがとうございます」と告げた際の心から安心したような笑みが、いつまでも頭に残っていた。
 
 それからというもの、人魚は漁師の元へと通うようになった。最初は怪我の治療の為と言い訳をして、けれどいつしかその口実は薄れていき、気付けば人魚はただ純粋に彼の元を訪れるようになっていた。
 彼は優しい人だった。自身の元に度々訪れる人魚を邪険にするどころか、いつでも笑顔で迎え入れてくれた。生業である漁の手を止めてまで他愛のない話に耳を傾けた。人魚が手土産に持ってきた海藻や珊瑚を申し訳なさそうに、けれど大事そうに受け取って、次会う日にはお礼にと、人魚の黒い髪によく似合う髪飾りをプレゼントした。彼と過ごすそんな時間が、人魚にはとても心地よかった。
 大きな月が空に昇って海面に光の道を作りだすころ。二人きり秘密の話をしたり、ただ静かに波の音を聞いたりする。それだけで人魚は幸せだった。

 けれども運命とはかくも残酷なものか。月の晩、いつもの様に海中に潜って漁師を待っていると、荒れた海のような水音が人魚の耳に届いた。
 どど、どど、と規則的に聞こえるその音は、人魚のいる方向に近づいているのかどんどんと大きくなっていった。いったい何の音だろうか。人魚は不安に思いながらも、近くの岩陰に身を隠して様子を疑うことにした。
 暫くして、やってきたのは漁師のものとは比べ物にならないくらいの大きな船だった。船体を飾り付ける金箔や豪奢な船飾りは、水の中からでも分かるほどギラギラと光を放っている。月明りとは違うどこか下品な光に、人魚の心はさらに陰った。
 早く、早く何処かに行ってほしい。そう願いながら岩肌に体を寄せてじっと目を瞑る。海が揺れる音に交じって聞こえるいくつかの荒々しい怒号は鯨の鳴き声なのだと、自分を誤魔化した。
 どれだけ時間が経っただろうか。下品な光と水音が遠ざかっていった。水面にそっと顔を出してみれば、船は町に向けて去っていく。周囲に浮かんだ食べ残された果実のごみと破れた網の残骸が、光の道の上を塞ぎ汚していた。
 人魚が漁師に会えたのはその次の晩だった。一刻でも早く会いたいと願った彼。しかしその姿を見て感じたのは喜びでなく戸惑いだった。出会ったあの日とは逆に、漁師は怪我をしていた。赤黒い血のにじんだ包帯に、付けられて間もないだろう青紫の頬の痣がひどく痛々しい。そんな様子であるのに漁師は申し訳なさそうに笑って言うのだ。「昨日は来られなくてごめん」と。

 人魚には分かっていた。昨晩の大船に傷だらけの漁師、それはきっと自分が原因なのだと。自分の存在が漁師を不幸にしてしまうのだと。人魚は気づいていた。月夜の晩の逢瀬、そんな幸福な時間が続く限り彼はまた傷つくだろうと。だから人魚は決心した。今宵を最後に、漁師と別れる選択を。
 さようなら、どうか貴方は幸せに。短い別れの言葉を最後に、人魚は暗い海底に沈んでいく。人魚がいなくなった後には、小さな藍色の鱗が一枚、月明かりに照らされて光るだけだった。漁師はそれを掬い上げて、ついぞ彼女に見せなかった涙を流した。濡れた鱗が月明りを反射して、またきらきらと光った。


【1つだけ/それでいい】

4/5/2023, 9:29:07 AM