東雲が御簾を隔てた薄闇の母屋にぼんやりと光を灯した。
私は庭に面した御簾に近づき、貴方-藤原豊秋様の玉砂利の足音に耳を欹てる。
豊秋様は先日出世され中将様となり、帝の覚えも目出度い公達であり、
私の側近の女房、「秋野」の元へ夜な夜な通う秋野の恋人。
私と、秋野と、豊秋様は筒井筒で、私たちが幼い頃は下級貴族の秋野とも楽しく貝合わせや双六をして遊んでいた。
私の裳着と豊秋様の元服が終わり、私はいよいよ豊秋様との婚礼の儀が執り行われるかと思った。でもいくら待っても、父上も母上も藤原家との婚礼に関する日取りを教えてくださらなかった。
きっと貴方は恥ずかしいのね。
私は豊秋様からの恋の和歌が届くのを待っていたの。
貴方からの和歌を想像して、返歌を想像したり。
それだけでも楽しかった。楽しかったの。
だけど…
秋の訪れを感じる月の光が美しい夜。
私は澄んだ空気の冷たさに秋野を呼んで、衾を一枚持って来るように伝えたわ。返事をして御簾の向こうへ歩いて行った彼女は、私の元へ戻って来なかった。
秋野はどうしたのかと立ち上がったその時、聞き慣れない音がした。
争うような小声、忙しない衣擦れの音。
曲者!?
私は御簾の端からそっと様子を伺って…あっ、と言う声を飲み込んだ。
秋野の肩に顔を埋めようとする殿方の背中が見える。
秋野は殿方から身体を捻り、両手を殿方の胸に置き離れようとしている。
私は御簾に隠れて、自分の胸に手を当てる。動悸が鳴り止まない。
こんなとき、どうすれば良いの?
非力な私に、何ができるの?
月明かりの衣擦れの音に混ざって、秘めた声音の会話が聴こえる。
「なぜ返歌をくれないのですか。私は貴女の返歌をいつも待ち侘びているのです」
「なりません、中将様。姫様のお気持ちをお考えください」
「私は貴女の気持ちが知りたいのです」
中将様…?
私の気持ちって…!
恋慕う豊秋様の笑顔が思い浮かぶ。
典侍として後宮に出入りしていたとき、帝をお守りする束帯の貴方は、背筋が伸びて眼光が鋭く、とても素敵だった。
帝の御前で和歌を詠んだ日、貴方は帝にお褒めの言葉を頂戴して、嬉しそうに笑った。幼き頃に一緒に遊んだ笑顔と同じように可愛くて、私の心は暖かくなった。
私が恋をそっと育んでいた日々に、豊秋様は私の後ろへ控える秋野をそっとお慕いしていたの?
秋野の元へ忍ぶほど、今の豊秋様は秋野に恋焦がれているの?
衣擦れの音が消えた。
そっと様子を伺うと、ふたりは抱擁を交わし、豊秋様は静かに和歌を詠まれた。
『秋の夜の 月の光に 君想ふ 心の闇を いかに照らさむ』
秋野は瞳を伏せ、微かに震える声で返歌を詠んだ。
『君想ふ 月の光は 照らすども 我が心闇 消えぬ秋風』
私が恋焦がれている愛しいひとが、私の女房に歌を詠む。
秋野へ恋慕っていると告げ、秋野の憂いを月明かりで私が照らしたいんだと。
秋野は豊秋様をお慕いしてると告げて、でも、私は消えない秋風のように憂いがあると。
幼い頃から、豊秋様からの和歌を待ち侘びて、返歌を想像して、楽しく夢を見ていたのは、私なのに。
夢だった。
貴方と家庭を築くこと。
貴方が私の寝屋に通って、そっと、愛を交わすこと。
御帳台で見る夢はいつも、豊秋様が和歌を歌われ、返歌を歌ってふたりで微笑んでいた。
抱擁なんて…まして、寝屋に忍ぶ夢など、見たこともなかったのに。
御簾の中へ戻ったけれど、月の光が揺らめいて御簾越しのふたりが重なる影を淡く浮かび上がらせる。
ふたりの衣擦れの音が、遠く離れていく。
私は床に座り込んで、涙をこぼす。
涙はこぼれ落ちたら止まらなくなって、床板に滲みを増やしていく。
「玉砂利の 音遠ざかる 秋の夜 涙の滝ぞ 心に流る」
呟く和歌を聴く人はいない。返歌をくれる人も。
豊秋様、貴方だけが私の全てだった。
暁の頃、豊秋様の玉砂利の足音を聴いた。
遠ざかっていく足音。
枯れたはずの涙が、またこぼれ落ちる。
朝陽が満たされた母屋で、朝の挨拶を交わした女房たちの中に秋野の姿はなかった。
「秋野は本日、気分が優れないそうです」
「そう…」
「秋野、泣いていたかもしれません。目が腫れて…」
「姫様、姫様も瞼が腫れてらっしゃいます。どうなさいましたか?」
女房たちが私を心配して、にじり寄った。
優しさが私を涙させそうになり、口元を隠していた檜扇でそっと目元を隠す。
「私も気分が優れないの」
「姫様、医師をお呼びいたします」
「それには及ばないわ。月のもののせいなの」
「…わかりました。何かありましたらお呼びくださいませ」
「ええ。ありがとう」
秋野、泣いていたのね…。
「姫様のことをお考えください」
未明の静けさに凛と響いた声を思い出す。
それでも、豊秋様の情熱に絆されてしまったのね…。
女房たちを下がらせて、私は御簾の端から澄んだ青空を見上げた。
雲ひとつない快晴に、白い月が浮かんでいる。
昨夜は金色の満月だった。
ふたつの影を近づけて浮かび上がらせた、明るい満月の夜だった。
今日は秋野と顔を合わさなくて済みそうで良かった。
お互い、どんな表情をしていれば良いのかわからないもの。
私は仮病だけれど、秋野は今朝は本当に辛いのでしょうね…。
今は何も考えたくないわ。
私は衾を頭まで被った。
今朝も、玉砂利の足音が遠ざかっていく。
秋野が、紅葉が鮮やかに彩るように、日に日に美しく輝いていく。
私はあの日からずっと、遠くなる足音に耳をそばだてて、豊秋様を感じている。
ひとつ、わかったことがあるの。
豊秋様は、宿直の日以外は、この屋敷へ通われる。
秋野と夜を過ごしている。
中将様というお立場なら、夜に訪ねる姫が大勢いても不思議ではないのに、女房の秋野の元だけを夜毎訪れていらっしゃるの。
哀しいのに。
寂しいのに。
一途な豊秋様を知って、益々恋慕ってしまうの。
冬が来て雪が積もったら、きっと豊秋様の足音は聴こえなくなる。
そうしたら、
私は豊秋様のことを忘れられるのかしら?
秋の訪れ、遠い足音
10/3/2025, 8:39:51 AM