海月 時

Open App

「僕の事、忘れないでね。」
本当に馬鹿だな。人間は忘れる生き物なのに。

『何してるの?』
僕が聞いても彼女は何も言わない。ここは駅のホーム。そこに一人の彼女。誰かを待っているようで誰も待っていないような、何処か掴めない雰囲気を持つ彼女。僕は彼女の事を知っている。
『ねぇ、もう諦めたら?』

あれは数年前。僕達に悲劇が訪れた。彼女が【若年期認知症】と診断されたのだ。診断された後からは、より症状が悪化していった。家族の顔も、友人の名前も、僕の存在も彼女は忘れていった。
「良くなったら、電車で旅とかしようよ。」
彼女の記憶から消える事が、ただ怖かった。だから何度も願った。しかし、願いは届かなかった。
「僕の事、忘れないでね。」
彼女は僕を忘れる。これは変わらない事実なのに。僕はいつまで、夢を見ているんだろう。もう嫌だ。彼女の窶れた姿は見たくない。彼女の記憶から消えたくない。もう逃げてしまいたい。僕は彼女からも、現実からも逃げたんだ。死という道を選んで。

『誰を待っているか分からないけど、誰も来ないよ。』
僕は彼女から逃げたくせに、死んでなお彼女に会いに来てしまった。本当に馬鹿だ。僕も、君も。
「誰かに電車で旅をしようっ言われた気がするの。誰かは忘れた。でも、その人がすぐ近くに居る気がする。」
こんな小さな言葉を覚えててくれたんだね。僕は泣き出した。そんな僕を見て彼女は困った顔をした。
「私、貴方に会った事がある気がするわ。」
『さぁ、どうだろうね。』

遠い日の記憶を、辿る。そして願う。もう一度彼女と、恋に落ちる日を願う。

7/17/2024, 3:48:22 PM