メガネの人

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《君の声がする》
「……失礼するよ」

軽くノックをし、隣室の研究室へ入った。
「ん、高村か。なんだい無精な顔だね?またなにか、良いアイデアでも思いついたのかい」
「……まあ、そんなところだ」

私の所属する研究所では、主に半導体機器へのプログラミング開発を中心に、データ通信・AI技術の応用・新しい計算処理アルゴリズムの開拓など、その分野に関わる製品に対して、間口の広い研究を行っている。

「……今回は、相談というよりも、お願いと言った方がいいかもしれない。開発者である君へのお願いだ」
「おぉ、なんだい随分と神妙じゃないか。ワケありな空気は興味がそそるねー」

悩める私の聞き手である五十嵐は、音響デバイスの研究者であり、かつ人工音声技術の開発者である。
「あーでも、内容によるかな。前みたいな共同研究の提案なら、今期はきびしそうだよ。君の生体技術の研究は、複雑だからねー」

かくいう私は、人体と機械技術の間をつなぐ、新たなデバイスの研究者である。
「……あ、いやそういうんじゃない。安心してくれ。お願いしたいのは、もっと個人的なお願いだよ。私個人の抱えている、悩みについてだ」

五十嵐はややホッとした様子で、取り直す。
「あ、そうなの。まぁ、よかった。んで?君のお願いしたい悩みって、なんなのさ?」
そして、私は重々しい口調で伝えた。

「……私の“妻”の声を、改変してほしい」


私が五十嵐に頼んだのは、彼の開発した技術、人工音声技術が関わる。
人の声が聞こえるには、通常、まず喉奥部にある声帯の運動によって発生する空気の震え、音波が必要だ。
それが我々の耳の器官、蝸牛と内耳骨へと届くことで、脳は空気の振動を、音という認知へと変換する。

これは言い換えれば、我々の聞こえている全ての音は、ただの空気の震えの度合いでしかない、ということだ。
五十嵐はその震えを、人工的に調節する技術を開発した。
耳の中に取り付けるタイプの小さなデバイスで、ある特定の音に対して、それを故意に再編させるというもの。
これを用いれば、どんな声も、自在に望んだ音へと変化させることができる。

たとえば、好きなアイドルや歌手の声を設定すれば、様々な相手からその声を聞くことができるようになる。
逆に、嫌いな相手の声だけを狙って、消音もしくは静音に設定することもできる。これはクレーム処理などの現場へ応用が期待された。

そして、私が彼に依頼したのは、そのデバイスを私にも用いて欲しいということ。
そして、“妻”の声に、ある設定をして欲しいということ。

「……どうだろうか、可能か?」
訝しげな五十嵐に、おずおず尋ねてみた。

「んー、まぁ、可能ではある。ただ、その目的がわかんないなー。なんだってそんなことするだい?君の奥さんは、とても良い人だって聞いてるけど」
「……目的、か。それは私が、今後も妻と一緒にいるために必要なことだから、といっておく」
やや強引に、私は言い切った。
「そ、そっか。高村にとっては、大切なことなんだね。よくわかんないけど、やってあげよう。すぐ済むし」

そうして、私はデバイスをセットしてもらった。
“妻”の声の設定を終えたデバイスを。



その日、やや遅い時間に、私は帰宅した。
“妻”の待つ、団地のアパートである。

ガチャッ
「……ただいま」
扉を開けると、“妻”の声がした。
「あ、おかえりなさい!遅かったわね、もー、心配したんだからねー」
「すまない、ちょっと立て込んでね……」
「だーめ!ゴメンで済んだらケーサツはいりません!一緒にごはん食べてくれなきゃ、機嫌直しません!」

ぷりぷりした“妻”に、恐縮しながら、
「わ、わかったわかった。一緒に食べるよ……。お腹空いてるし、待っててくれてたんだし……」
「ほんと!わーい、今日は頑張ってイタリアンにしてみたの。早く食べて欲しくて、ずーっと待ってたんだからね、もう!」
「そ、そうだったのか……」
私は“妻”と一緒に、席に着いた。


食事をしながら、私は思った。
五十嵐に頼んで良かった、と。
“妻”の声が、変化している。
私の耳には、彼女の声が、私の望んだ通りになって聞こえる。
本当に良かった。

「どう?美味しい、あなた?」
「……うん、とっても美味しいよ。ほんと、お店みたいだ」
「えーほんと?!嬉しい!初めてだったけど、挑戦してみてよかった。また作ってあげるね」

そう言いながら、彼女はコップに注いであったオイルを飲んだ。
普段の機械仕掛けな声ではなく、“人間”の声で会話してくれる。
これは、“妻”や五十嵐たちアンドロイドには、まだまだ理解しづらい、人の性(さが)なんだろう。

2/15/2025, 12:03:10 PM