一尾(いっぽ)in 仮住まい

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→埋没話・とある独白

 私の始まりは薄暗くて息苦しい場所。ここはあまりに狭くて、私は手足を縮めて小さく丸くなるしかなかった。袋の外から規則的な振動が伝わってくる。あと、低い怖い男の人の声。
「こいつを養女にしたら大金が転がり込むって蛇の口車に乗ったはいいが……、――チッ、ガキは嫌いだ。早まったなぁ」
 怒ってるなぁ、どうしたんだろう? 怖いし、黙っておこう。
 何もやることがないので、私は更に自分の体を抱いて小さくなった。 まるで赤ちゃんが母さまのお腹の中でじっとしてるみたいに。
 ところで、私は誰なんだろう? 何も覚えていない。でも、これからすべてが始まるってことだけは知っている。
 長時間の規則的な振動を子守唄に、私はいつの間にか眠ってしまっていた。だからその子守唄が止まったとき、私は目を醒ました。
 外から声がする。
「アントワーヌ……、これは?」
「養女を仕入れた。俺から弟のお前にプレゼントだ。大事に育てろよ」
「なぜ、こんなことを! ま、まさかこの袋の中に人が――!!」
 急に私の頭上が忙しなくブワブワと動いた。頭上のぎゅっと締まっている部分が徐々に開いてゆく。あっ、そこ、開くんだ。知らなかった。
 薄暗い世界が徐々に明るくなる。そして現れた一人の男の人。目を見開き、私を見ている。息を飲んだのが解った。良い匂いのする人だ。それに比べて私は……。私はちょっと自分をクンクンと嗅いでみた。あ、ちょっとクサイ。恥ずかしいな。
「息苦しかったろうに、酸欠になってはいないかね? さぁ、おいで」
 男の人はそっと私の脇に両手を差し込んだ。途端に私は持ち上げられた。私、クサイのに。この男の人、よく平気だなぁ。
 私は彼が私を抱き上げた場所を見た。薄汚れた袋がクタっと落ちている。へぇ、私、あそこに入ってたんだね。
「僕の名前は、セルジュ・デュ・ルキエという。君の父親であるアントワーヌの弟だ。つまり君の叔父ということになる」
 セルジュの声は、とても優しくて私は一目で彼が気に入った。私を安心させるように彼がふっとほほ笑んだ。私は大きく息を吐いた。彼のいい匂いと外の空気を私は思い切り吸い込んだ。
「今日から僕たちは、同じ家で生活を始めよう。よろしく、小さなお嬢さん」

 私は折に触れて、この叔父と私の生活の始まりを思い出す。
 当時の私は何も知らなくて、何も覚えていなくて、その世界は真っ白で、自分が手を動かし足を動かし体を動かしたところから色が付いた。私は多くを学び、小さな思い出をたくさん積み上げて、自分の世界を構築していった。
 私には5歳以前の記憶がないが、それ以降の記憶や思い出は、海底の底に沈むプランクトンほどに多くある。大好きな叔父のおかげで。彼が私を見守ってれていた。私の世界は彼がいなければ成り立たなかっただろう。
 そうした小さな思い出たちを、いつでも私は思い出すことができる――

 ――私たちは、お家の廊下を歩いている。
 ずんずんずんって歩いている。行き先は養父さまのお部屋。
 私の手を引いてお隣を歩くセルジュはとても怖いお顔をしている。
「よくお聞き。君は自由に話すことができる。何人たりとも、他人の自由と尊厳を奪ってはいけないし、はく奪を享受してはいけない。権利は神聖不可侵なものだ。さぁ、おいで。君の自由を取り戻しに行こう」
 難しいお話だ。どうしよう、ちょっと何を言ってるのか分からない。とりあえずうなずいておこう。
 とにかくセルジュと同じようにしておけば間違いない。彼に合わせて私もなるべく怒ったお顔をすることにした。いっぱい頬っぺたを膨らませる。こんな風にしたら怒ってるみたいに見えるんじゃないかな?
「アントワーヌ、失礼します」
 中の返答を待たずにセルジュは扉を開けた。途端にあふれ出す、甘い嫌な煙草の臭い。私は両手を鼻と口に押し付けてそれを防いだ。
「何だ? セルジュ、お前らしくない荒いご登場だな。チビまで連れて」
「この部屋に彼女を長く置きたくありませんので、不躾ですが本題に入ります」
「お前のそのやり方がすでにお上品だぜ。何だよ? こっちは荷造りの最中だ。早く言えよ」
「彼女に謝罪して下さい」
「謝罪? 俺が? こんなガキに? クーデターでぼろぼろになった国から引き取ってやった恩をコイツから感謝されるならともかく、俺が謝罪? 冗談じゃない」
「彼女がこの家に来て以来、口を開かなかった原因は、あなたが彼女に沈黙を強いたことだと、彼女から聞きました。あなたにとっては日常的な言葉だったのでしょうが、彼女にとっては命令となった。このような事態は起こるべきではない。彼女を解放してください」
「は? お前、何、言ってるんだ? 俺がコイツに何か言った? 覚えがない」
 わ! 嘘つきだ! 言ったもん! 黙れって言ったもん! 私はセルジュの服の袖をつかんで引いた。私、嘘なんかついてないよと、彼に目で訴えた。
「彼女を見てください。声が出せない」
「お前には話したんだろう? じゃあすぐにギャーギャー騒ぎ出す。俺が悪者みたいに言うな。気分の悪い話だぜ。ガキの言うことをまともに受け取りすぎだ」
「年齢は関係ありません。一個人として対処すべきでしょう。現に彼女はこの場でも声を発さない」
「そりゃ口を押えてるからな」
「いいえ。あなたの言葉がストッパーになっているからです」
 セルジュと養父さまはにらみ合っている。私、どうしたらいいのかな? 私も養父さまを睨んだらいいのかな? でも怖いしなぁ。
 あ、おトイレに行きたくなってきちゃった。
「うるせぇ弟だなぁ。分かったよ。謝ればいいんだろ? えーっと、何て言った?」
「あなたが聞きたいのは、まさか、彼女の名前、ですか?」
 とセルジュは驚いていた。父さま、私のお名前、知らないの? そう言えば呼ばれたことなかったな。
 あれ? 何も聞こえないよ。セルジュが私の耳をふさいでいた。何か、二人でわぁわぁ言い合った後で、ようやくセルジュが私の耳から手を放した。
 あぁ、これで声が聞こえるっていうか、私ね……。
「あー、っと。悪かったな。許せよ」
 えぅ、そ、そんなこと、どうでもよくなってきちゃった。それよりもね。あの、お、おトイレ……。
「目的語が抜けています」
 あのね、私ね。
「―ッチ! 黙れって言って悪かった。でもな、そんなもん額面通りに受け取るもんじゃないってことくらい気が付けよ。バカなガキだなぁ」
「アントワーヌ!」
 私ね、えっとね。
「もういいだろう! さっさと出てけ! 俺は今、忙しいんだよ! 今晩、出発するんだ! ほら! 失せろ!」
 ガチャンと部屋から追い出された。叔父はため息を吐いて私に笑いかけた。
「さぁ、これで君は何でも話せるね」
 やぁ、やっと聞いてもらえそうだ! 私は何度も頷いた。
 私はにこやかなセルジュにさっそく急用を告げた。
「あのね! 私、おトイレに行きたい!」
 あっ、セルジュの顔色が変わった。ふーん、セルジュってこんなお顔もできるんだ、と思ってたら、彼は私を横抱きにして一足飛びに走り出し、私をおトイレに押し込んだ。
 ふぅ、良かったぁ。間に合った。お話できるって素晴らしいよね。
 今日、私が学習したこと。セルジュは案外と力持ちだということと、本当に頼りになるっていうこと。

 あぁ、懐かしいな。私の宝物の日々。今ではもう遠い過去の日々。
 私は大人になり、あの家ではなく遠い町で暮らしている。
 今日、久しぶりに叔父から手紙が届いた。彼らしい繊細で几帳面な文字。
 私は手紙の文字をそっと撫でた。

テーマ; 酸素

 (前回、長編の没エピソードをサルベージしたら、一緒に出てきた話)
 
 

5/15/2025, 4:18:11 AM