一ノ瀬 奏

Open App

#20 美しい

「僕の画材になってもらえませんか。」
私は言葉の意味が掴めなくて、首を傾げる。
絶対危ない提案だ。
やめておいた方がいい。
瞬間的にそう思った。
それなのに、咄嗟の拒否は出てこなかった。
代わりに出てきたのは、
「どういう意味?」
という疑問だけ。
男は、待ってました。と言わんばかりに興奮気味に口を開く。
「貴女が美しすぎるから、僕の作品の一部にしたいんだ。」
私を見ているようで、私なんか見ていない。
何か私の奥の奥を見て恍惚とするような瞳。
私は思わず目を逸らした。
背中に悪寒が走って鳥肌が立っている。
それでも、身体は動かない。
恐怖で、というよりも、興味で。
私のその姿に男は満足した様子で微笑んだ。
「ちょっとこちらへ。」
そう手招きされて、手繰いよせられるように男の後を追う。
もうその時には、逃げるなんて考えはとっくに溶けてしまっていた。

「アトリエです。」
案内されたのは美術準備室。
入った途端にドアをぴったりと閉められる。
少し埃っぽいが、特に変なところはない。
キャンバスと太さの様々な筆。
あとはクロッキー帳と色とりどりの絵の具。
洗われていないパレット。
絵に描いたようなアトリエ。
なんだ、変な提案をしてくる割に普通じゃん。
それが素直な感想だった。
ほっと胸を撫で下ろす。
画材って、絵のモデルのことだったの?
そう聞こうと口を開いた瞬間。
「ここが僕の。」
男はそう言って真っ白なカーテンを開ける。
「え。」
私は息を呑んだ。
机に小瓶がたくさん並べられていた。
小瓶には赤い液体が詰められていて、心なしか金属のような匂いがした。
少し黒っぽいものもあれば、真っ赤なものもある。
小瓶にはカタカナで名前のようなものが書いてある。
色名だろうか。
絵を描かないから私にはよくわからない。
あとは、真っ黒で毛先がバサバサの筆。
男は筆を一つ手に取って、毛先をうっとりと見つめる。
「これは僕が作ったんですよ。この毛、使う前はサラサラでツヤツヤだったんですけどね。」
何かおかしい。
そう気づいてはいた。
でも、私は興味に抗えなかった。
「僕の絵、見ますか?」
断る隙もくれず、男はどこかへ消えていった。
少し気になって彼のアトリエを調べることにした。
小瓶を一つ取り上げてみる。
『10/2 イノウエミク』
衝動に駆られて蓋を開けた。
そのまま鼻に近づけて匂いを嗅ぐ。
鉄、、いや血の匂いだ。
突然怖くなって小瓶が手から滑り落ちた。
赤い液体が宙を舞って、小瓶はガシャンと音を立てて割れる。
片付けて全て隠そうとしゃがんだ瞬間。
耳元の空気が震える。
「あぁ、落としちゃいました?」
低くて、ねっとりとした声。
身体が硬直する。
何か言い訳したくても、喉が詰まって声が出ない。
彼は割れた小瓶に手を伸ばした。
手を真っ赤にして、それも気にせず拾い集める。
指にガラスが刺さっているのに痛みすら感じていないようだった。
口角が上がったまま、ジロリと私をみつめる。
その目に光はない。
「ミクちゃんか、あんまり気に入ってなかったから全然大丈夫だよ」
彼はそう言って、汚れた手で私の頭を撫でた。

1/16/2026, 1:19:55 PM