また、ここに戻ってきてしまった。
バスを降り、そっと息を吐く。
塗装の剥げたバス停。錆の浮いたベンチ。日に焼けて褪せたポスター。
記憶にはないそれらが妙に懐かしい。ふらふらとベンチに近寄り、腰を下ろした。
遠く見える山の緑にうっすらと紫が混じっているように見えるのは、山藤が咲いているからだろうか。そんな取り留めのないことを、ぼんやりと考える。
とても静かだ。周囲には人の姿はなく、車や電車の音も聞こえない。人と物に溢れ返った街とは大違いだ。
「――どうして」
無意識に口をついて出た言葉は最後まで続くことはなかった。続く言葉が思いつかなかったからかもしれない。
どうしてここに来たのか。記憶にないこの場所をどうして知っていると思うのか。どうして戻ってきたという感覚が抜けないのか。
自分はこの場所を知らない。祖父母の家がある訳でもなく、遊びで訪れるような場所でもなかった。
溜息を吐く。軋むベンチの音や冷たさに懐かしさを感じて、何故か無性に泣きたかった。
「隣、いいですか?」
不意にかけられた声に、はっとして顔を上げた。
初老の男性がこちらを見て微笑んでいる。一瞬何故聞かれたのかを疑問に思い、だがすぐに自分がベンチの真ん中に座っていたことに気づいて慌てて端に移動した。
「すみません。どうぞ」
「いえ、ありがとうございます」
怒る訳でもなく、逆に礼を言って男性はゆっくりとベンチに座る。その緩慢な動作も穏やかさも、街ではあまり見ることはなかった。
だがここではそれが当たり前だ。時の流れが違うのだと、当然のように考える自分に内心で驚く。
「どうかなさいましたかな?」
「え?あ、いえ。すみません。不躾に見てしまって」
いつまでも見ていたからだろう。男性が不思議そうにこちらを見て問いかける。
流石に失礼だったと頭を下げるが、男性はただ穏やかに笑うだけで気分を害した様子はなかった。
相変わらず、ここの人たちは優しい。隔離された空間は排他的になるというが、ここは来るものをただ受け入れ、去るものを穏やかに見送る。澄んだ空気と豊かな自然、流れていく時間が人を優しくさせるのだろうか。
覚えのない懐かしさに切なさが込み上げる。気づけば男性に対して、この不可思議な感情の理由を問いかけていた。
「何故私は、この場所を懐かしく思うのでしょうか?」
初対面の相手にそんなことを聞かれても困るだけだ。そう思うものの、一度吐き出した言葉は止まらない。
「ここに来たことなど一度もない。記憶にないはずなのに、私はここを知っている……人の温かさも、自然の美しさも、賑やかな虫の鳴き声も、一面に実る稲穂の色も、深々と積もる雪の冷たさも全て……忘れたはずなのに、いつまでも覚えている」
次々と溢れてくる言葉。知らないはずの光景が言葉と共に思い浮かび、あぁ、と声が漏れた。
男性は何も言わない。静かにこちらを見つめている。
柔らかな眼差しに安堵すると同時に、苦しくなった。その視線から逃れるように俯き、両手で顔を覆う。
「忘れてしまいたかった。戻ってきたいと願い、戻れなかったのだから、いっそ何もかもを忘れることができたならと思ったのに」
――こうしてまた、戻ってきてしまった。
滴が手を濡らす。その冷たさに自分が泣いていることに気づいた。
「――あなたは、変わりませんね」
静かな声がした。
「あなたは誰よりもここを愛していた。いつまでも子供のように無邪気で、純粋で……優しく、真面目な方だった」
のろのろと顔を上げる。
困ったように笑うその顔を、見たことがある気がした。
「何度忘れても、あなたはこうして帰ってくる。それほどまでに深く、この場所に縛られているのでしょう」
「縛られて……いえ、違います。それは違うのです」
ゆるりと頭を振った。
縛られているわけではない。ただ求めているのだと、理由もなくそう確信していた。
去ることを引き留めてもらいたいのは、自分の方だ。
「縋っているのは私です。忘れたくはないのです。この場所の愛しさを、私はいつまでも覚えていたかった……もう一度、この地で生きたかった」
「本当に変わらない方だ」
ふっと、男性は息を吐いた。それは意見を曲げない子供に対するような呆れを滲ませながらも、とても優しいものだった。
「――そろそろバスが来ますね」
ぽつりと呟いた男性の言葉に重なるように、遠くでバスのクラクションの音が聞こえた。
近づくバスの音。込み上げる寂しさに、そっと目を伏せる。
「お気を付けて。あなたが健やかに日々を過ごせることを願っていますよ」
「ありがとうございます。あなたもお元気で」
バスが止まる。
男性に別れを告げて立ち上がり、ゆっくりと開くドアに向けて歩き出す。
立ち止まることはしない。帰ることを拒んでも、何の意味もないことは理解していた。
「いつでもいらしてください。あなたが心のどこかで欠片でも覚えている限りは、変わらずにここは在り続けます」
振り返らずに、ただ頷いた。
ドアが閉まる。自分以外誰もいない車内の一番後ろに座れば、バスはゆっくりと走り出す。
遠くなるバス停。過ぎていく景色と共に、記憶が色あせていく。
日常に戻れば、また忘れてしまうのだろう。そしてふとした瞬間にここで過ごした記憶の欠片を思い出し、ここに戻ってきてしまうのだ。
覚えている限りは、あの場所は在り続けるのだと言った。ならばこの先もずっと、変わることはない。
あの場所で過ごした遠い昔の日々。
忘れられない、いつまでも。
20260509 『忘れられない、いつまでも。』
5/11/2026, 2:40:08 AM