感情の軌跡を、彼女は俺に触れさせてはくれなかった。
普段あれだけ人の機微に鈍いくせに、雑なくせに、見向きもしないくせに、彼女は人の感情を信じている。
「……心に少しの欠けもなく、全く壊れていない人なんてきっといないよ」
無理やり傷を塞いで、取り繕って、虚勢を張るのが人であると。
以前、なんのきっかけだったか。
彼女は淡々と呟いた。
自身の言葉どおり、立ち止まることを選ばなかった彼女はそのサイクルを繰り返す。
しかし、シャツをたくし上げた彼女の姿は、カサブタを無理やり剥がす自傷行為にも見えた。
ボロボロになった黒いTシャツは、袋に入れられて部屋の隅に追いやられる。
タイミングがいいのか悪いのか、明日はゴミの日だ。
長年連れ添った黒いTシャツはカサブタと成り果て、明日の朝にはなかったものとして扱われようとしている。
そこに俺の感情はない。
乗せようとも思わなかった。
ただ、俺の前ですら、赤く腫れた目元をごまかした彼女を早く抱きしめたい。
彼女が自分で傷を剥がすのであれば、俺は別の場所に痛みを伴わない小さな傷をつけるだけだ。
俺の前では、なにも考えなくてもいいように。
彼女のいる風呂場を見つめたあと、俺はリビングに戻った。
*
「……明日、買い物行くって、私、言った」
甘く湿度のこもった寝室。
俺の腕の中で、彼女は冷ややかな声を響かせた。
掠れた声にいつもの圧はなく、柔らかな唇が俺の腕をくすぐる。
「ええ。楽しみです。どこまで出ましょうか」
はらはらと生理的な涙を溢した彼女の目元を拭う。
長い睫毛は常夜灯でてらてらと艶を帯びていた。
「そうじゃなくて。ちょっとは、加減して」
「え?」
明日の買い物デートは絶対条件だ。
気をつけたのだが、やりすぎてしまっただろうか。
「……明日には響かないようにしたつもりですが、しつこかったですか?」
「しつっ!? こ、いとか……そういうん、じゃ、ない……」
照れてしまったのか、彼女は俺の腕から抜け出して、コロンと背中を向けてしまった。
「顔、……腫れちゃったらどうしてくれるの」
「……」
ここで俺に責任を押しつけてくる彼女だが、あまりにも心外である。
「それは、自業自得ですよね?」
納得がいかないのか、彼女の小さく跳ねた背中に額をグリグリと押しつけた。
「隠さないで俺を見てって言ったのに、全然聞いてくれないからじゃないですか」
「んなあっ!?」
彼女は再び、俺に向かって寝返りを打ってきた。
納得のいっていないその不貞腐れた表情につい息をつく。
「どうせ顔を隠しながら、雑に擦ったんでしょう」
真っ赤に腫れた瞼。
頬を伝った涙の跡。
噛み跡の残った唇。
ひとつひとつ、俺のせいでできた傷の軌跡を指でなぞった。
不器用にしか泣けない強がりな彼女が、かわいそうで愛おしい。
「今日は見逃しましたけど、次はダメですからね?」
「……あっ」
余熱の残る彼女の首筋を指の腹で撫でる。
甘く震える吐息を唇で塞いで、歯止めが効かなくなりそうな体を起こした。
「そんな蕩かした顔をして。……もう一回しときます?」
「ん、え……?」
簡単に流されてくれる彼女がかわいくて、腫れた目元にチュッ、チュッと口をつける。
「今度は保冷剤、持ってきますよ♡」
「〜〜〜〜〜〜バカッ!」
からかわれたと気づいた彼女に、かわいらしい罵倒とともに枕をバフバフと叩きつけられた。
ニヤつく顔を見られないように、俺は急いで保冷剤を取りに寝室を出る。
明日には普段の彼女に戻るだろうと確信し、ホッと胸を撫で下ろした。
『涙の跡』
7/27/2025, 3:34:16 AM