『愛を注いで』
いつだったか、実家に帰って家族で揃って宴会をしている時に父さんが言った。
「みんなよく帰ってきてくれた。嬉しい。みんながどこで何をやっていても元気でいてくれればそれでいい」と
普段、無口で自分の思いを口にしない父さんが酔っぱらって口にした言葉がそれだ。だから、それは、きっと父さんの本心なのだろう。
いっぽうの母さんは、たまに俺のスマホにメッセージを送ってくれる。
その内容はというと……
「元気にしていますか? ちゃんと食べていますか?」
かいつまんで述べると、そんな感じのメッセージである。
そのメッセージを見るたび、小さい頃を思い出す。
うちの両親は共働きだったので、母さんが帰ってくるのは夕方の6時頃だった。
小さい時に母親が傍にいないというのはとても寂しくて心細い。婆ちゃんや兄ちゃんが小さい俺の面倒を見てくれていたが、それでも小さい俺にとっての一番は母さんだったのだ。
夕方の6時頃に車の停車する音が外から聞こえてくると、急いで玄関に出て母さんを出迎えたものだ。
その時も母さんは車から降りるなり「ただいま。お腹は空いてない?」と俺に聞いて頭を撫でてくれた。
間違いなく父さんも母さんも俺に『愛を注いで』くれていた。
いっぽうの俺はどうだろうか?
考えてみる。
すぐに答えはでた。
愛されてきた自覚はあるが、愛してきた自覚はあまりない。
父さんや母さんは俺に良くしてくれているけど親孝行は何もできていないし、しっかりものの兄ちゃんは俺の将来を心配してくれているのに時たまウザいなぁと思ってしまうし、弟は好き勝手に生きている楽観主義者なので俺が声をかけても意味ないし、爺ちゃんはしんじゃったし、婆ちゃんはボケが入って俺を電気工務店の人と思っているので話が通じないし……
文章化して理解する。俺は誰も好きじゃない。どこを切っても自分、自分、自分で、他の人なんてどうでもいいのだ。
……いや、そんなはずはない。そんなわびしい人間だと信じたくない。
もう一度、愛について必死に考えてみる。しかし俺が『愛を注いだ』人や物は思い浮かばない。そもそも『愛を注ぐ』ってなんだ? ますます訳がわからなくなってくる。
考えが煮詰まった時は、はじめに戻って考えてみるべきだろう。
俺のはじまりといえば父さんと母さんだ。生物学的にもきっとそうだ。
父さんは言った。
「みんながどこで何をやっていても元気でいてくれればそれでいい」と。
俺にだってそういう人はいる。それは家族の皆もそうだし、友達や、疎遠になってしまった人たちもそうだ。
母さんは言った。
「元気にしていますか? ちゃんと食べていますか?」
俺にだってそう聞きたい人はいる。元気で、お腹を空かせず、幸せに暮らしていてほしいと願う人が何人もいる。
そう思うのが愛なのだろうか?
そして俺は気がついた。
このような思いを言葉やメッセージで大切な人に伝えるのが愛なのだと。俺ひとりで勝手に納得していてもしょうがないことなのだ。
だけど俺はやっぱり誰にも『愛を注がない』
だって、家族や友達にそんなこというの、恥ずかしいから。
12/13/2024, 2:00:35 PM