蒼夏

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ー善悪ー

昔の人は

性善説や性悪説という言葉を使った。

今では

どちらでも無い、人による、場合による、

そういう声がよく聞こえる。


どちらでも無い、そうならば、

私の中の黒いのは

いつ、どこで、どうして、

生まれてきたのか。




子供は皆純真無垢か。

純真無垢は正義か。

ごめんね、で済めば平和になるだろうか。

子供も時には喧嘩をする。

それは大体ごめんね、で終わる。

それは、
たまたま、その、子供達が

酷い手段を、知らなかった、からである。



無知は正義か。

結果が酷ければ

知らなかった、それでは済まされ無いことが

当然のようにある。

大事なのは分別だ、そう思った。

けれども皆が分別を身につければ平和に、、、?

分別の基準がそもそも

善悪の基準と重なってしまう。



平和とか世界規模の話でなくても

日常で

大人が、子供でさえも、

毎日、どこかで

争い、

どちらが悪いか、と

決められた文字のルールとは別に

ほとんど意識し無いうちに、

善悪のルールを作っている。

そのルールが何万通りも何億通りもあって

似たようなルールの上で動く人達は

団結し、

善く、生きている、と讃えあう。



性善説でも性悪説でも無いことは、

善悪を、決められた基準無しに

判断しなければならない、こと。

それは誰かの主観の集まりであることが多い。



皆が自分のルールに従って生きていて、

それで、皆の生の意味が満たされたら

どんなに幸せだっただろう。


自分がされたく無いことは人にしないで、の

自分がされたく無いことの中身さえバラバラな

この世の中では

多様性の意味は

学べば学ぶほど分からなくなる。

さらには1人の人間のルールまで

コロコロといろんな条件で変わってしまうのだ。


善悪などそもそもそれ自体あるのだろうか?



私は思う。

大人になってしまったのなら、

一旦ルールなど手放して、

子供ともまた違うふうに、

好きという感情を

受け止めることだと思う。

誰か、何かを好きだという感情を、

自分を、弱さも含め好きだという感情を、

誰かに認めてもらうためでは無く、

自分の生の意味として、

そのものの

暖かさを感じることだと思う。







































































4/26/2026, 11:23:19 AM