イリチェの森の前で人影がふたつ立ち並んでいた。霧もない清々しい森は、看板をひとつだけ立たせて静かに木々の葉をそよがせている。
その空気を吸い込んだひとりがもうひとりのとなりで、その旋毛を見下ろした。
「また馬を探しに行くのか」
俺が居るのに――――、と唇の先で低く拗ねる。
それに顔を上げたもうひとり、旅装の彼は、片眉をひそめた。行く手を阻むように背後から伸ばされた腕ふたつに引き寄せられ、抵抗もせずに納まる。
たたらを踏むように後退れば、旅装の彼の足許では蹄の音が六つ、地面を踏んだ。
旋毛に顎が置かれたのはもう何度目か。旅装の彼は、すれた裾が風に揺らめくのを見ながら森の中を覗くように目を細めた。
腰に下げた干し肉の匂いが染みついた袋。それから斜め掛けにしている革の鞄。そのどちらもが、軽く感じているのは気のせいではないはずだ。
「そうだねえ、路銀は必要だからね」
「……ハァ」
短い抗議のため息が頭上で漏れた。
「そう言って一頭や二頭、新しく連れ立つつもりだろう。俺が居るのに」
「お前がいるから連れ立つんだよ」
「ハァ」
旅装の彼の肩に置かれた腕は骨ばっているのにあたたかい。長細い指が腹の前で組み上がってゆく。けれど、その腕の持ち主の下半身は六つの足跡を地面に残す。
その姿は神話の断片が地上に落ちたように思えた。人の胴に、馬のような獣脚が六本。素肌は指先からひたいまで、夜の海のように黒く、瞼のないただの凹凸が森を恨めしげに見ている。
その様は、ひとを守る精霊にも似通う。
しかし、この六足の獣は拗ねていた。表情が宿る尾は毛先だけが左右に激しく揺れている。
組まれた指を解くために、旅装の彼の指も絡まっていく。
「手なずけてから売るのが一番利益になるんだよ。お前も、この間、同族が居て楽しそうだったろ」
「ハァ~~~……」
六足の獣の胴体が、急いで短く息を吸い込む。
ひっく、ひっく、と強張る身体。
だがその整った凹凸にある顔は濡れることなく、泣き声のようでいてそうではない息遣いが続いた。ただ肩が震えて、旋毛に乗っていた重みが今度は肩に下りてくる。
六足の獣に涙はない。
泣き真似だ。
それでも、ぐすんぐすんと続けるから、旅装の彼は仕方なくじっとする。肩口に触る気配はやはりいつも通りの体温のままだ。
ぐすんぐすん、ひっくひっく。
解こうとしていた長い指先はさらに絡まって、旅装の彼の手もろ共一緒くたになってゆく。
「ハァ…、俺よりうつくしい一頭など見つけないでくれ」
「それは運だなぁ」
「…………ハァ」
ひっくひっく、ぐすんぐすん。
揺れる身体はまだおさまりそうにはなかった。
#なぜ泣くの?と聞かれたから
8/20/2025, 9:58:17 AM