「は? ちょっと待ってください、わたくしまだ頷いていな――――ッッ、ひあっ⁉」
「えーい」
断崖絶壁を、あなたは何とも軽いかけ声で飛び出していった――――わたくしをその細腕に抱いたまま。
落下、落下っ、落下――――ッッ‼
臓腑がふわりと体内で位置を変える不気味な心地に、思わずあなたの首に腕を回してすがりついてしまう。空気を裂いて落ちる音が耳元でごうごうと響いてゆく。
禍々しい雲のリングをいくつか抜けるとループゾーンに達する。重力が反転して身体がポンッと跳ね上がった身体は、青空の天井に突き刺さるように昇っていった。まるでボールだ。
足許には浮島に誂えられた天界を象徴する、シェカチェの大樹の梢が見えた。
湖が鏡のようにひかりを返し、果樹園はふくふくと育ちすぎていた。大樹の幹には灯りがぎっしりと並ぶ。比類なき完璧さに息がつまる。
ぶわりとあなたの真っ白なつばさが広げられ、落下がゆるやかになる。それでも、わたくしの矢印のような細い尾は無意識にあなたの脚に巻きついていた。
「今日からここで暮らそうね。母なる大樹の中で目覚めて、人間を導いて神に奉仕して、母の中に戻って眠るの。すてきでしょ?」
「……労働環境、最悪じゃないですか」
「そんなことないよ。ぼくのお部屋、おいで」
「うわっ」
ぐにゃりと視界が歪む。
こういう傲慢さや強引さにも、むかしのわたくしは辟易していた。
奥に長いひと間。
木の繊維に囲まれたそこは、支給されているあなたの装束のように無個性だった。
白いシーツのベッドに、三分の一を有する長いテーブル。ティーカップもお菓子もない、寝るだけの空間。
すてき、とのたまったあなたの笑顔に、濃い隈があることがすべてを物語っている。
「隠者の独房ですよ、こんなの」
「えー? でも、迷える人間を導いて、神にすべてが捧げられるんだよ? 主天使さまもそれがぼくたちの喜びって言ってたし」
「たまったものじゃありません。嫌です。わたくし、帰ります」
「え! やだやだ! じゃあぼくが堕天する!」
「は」
ぱちんとまばたきをした途端、また青空にほっぽり出されていた。
すっかりその気になっているあなたは、背中の羽が失われてゆく。歯抜けのようなみすぼらしいつばさを蠢かせて、わたくしに手を伸ばしてきた。
あなたのつばさはもう機能しない。
それなのに、満面の笑みを浮かべるあなたを、仕方なく腕の中に迎え入れる。
つんつるてんな羽はあなたのものとは違って角ばっているが、あなたは「いつかぼくにも生えるかな?」と暢気なものだ。
「ね、きみが住むのはどんなところ?」
「どんなところって」
「あ!」
薄暗い極夜の街並み。
レンガ造りのそれらは割と規則正しく建てられて、間を抜けてゆく石畳の道には市場の天幕がはためている。王城を中心とした城下町は、夜の活気に満ちていた。
腕のなかではしゃぐあなたを道端に捨てることもできずに、仕方なく、本当に仕方なく、わたくしの部屋に連れ帰る。
大通りから少し外れた、活気の薄れたアパートの一室。こだわりをコツコツと集めているここは、あなたの目にどう映るのだろうか。
「わあ、広いねえ」
「ソファにでも座ってください」
「ふかふか!」
「つばさがこんなにもボロボロに……、どうするんです、あなた帰れませんよ?」
「帰る必要があるの? だって、ぼく、きみといたくて来たのに」
きょと、と見上げてくる痛々しいほど無垢なあなた。きれいな装束とは裏腹に、抜けていく羽、やつれて血色のない顔。きらきらとした目の下にのっぺりと貼りつく黒い隈。
仕方ない。
仕方がないから、キッチンで湯を沸かした。
いくつかある茶葉をひとつ選ばせて、あなたが好みそうなティーカップとソーサー、もろい角砂糖に、温度を整えたミルクをつけてやる。
コポポポ……、沖天してゆく湯気に見惚れているあなたにソーサーを渡した。
くん、と鼻を近づけたあなたはふわりと破顔させて、まだ残っている羽をぼわっと広げる。
「あのね、…いいにおい」
「ゆっくり飲んでください。おかわりもありますし、クッキーもありますから」
「くっきー…」
「うんと甘くしたミルクティーに浸すとおいしいですよ」
きっと、これを聞いたあなたは戻れないのでしょうね。
#君と飛び立つ
8/22/2025, 9:40:23 AM