白糸馨月

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お題『あじさい』

 母とは長いこと会ってない。父が他に女をつくって出ていって以来、家は居心地が悪く、母は常に情緒不安定だった。
 子供のころはなんとか母を元気づけようと頑張っていたが、年が経つにつれ疎ましくなり、成人して仕事を見つけて出ていった。それ以来帰っていない。
 反抗期のそれとは、違う。父がいない寂しさから僕に「どこにも行かないで」とすがるか、父に容貌が似てきた僕に暴力をふるうかのどちらかだった。

 それが今、どうしてか帰郷している。僕と同郷の友人が母の様子を知らせに来たからだ。

「お前の母さん、倒れて今寝たきりだって」

 母とは随分疎遠だ。もう長くないかもしれない。そう思って、列車に乗って都市部からかつて住んでいた村まで行き、僕は入口で足を止めた。
 黒い傘をさしながら、通路の両側に咲く青や薄紫のあじさいを見て、きれいと思うより気が重くなった。
 雨ばかり降る大嫌いな故郷だ。そこのあたりで何度母に投げ飛ばされて泥まみれにされただろう。
 いやな記憶を頭からぬぐいさりながら実家へ続くぬかるんだ道を行く。

 白い家の扉を開けると、母が眠っているのが見えた。僕は傘を傘立てに置いて母のもとへと向かう。コートを脱がないのは、様子を見たらすぐ帰るためだ。

「母さん、帰ってきたよ」

 母は、目を見開く。

「あ、あな……あなた……」 

 母は、言葉がおぼつかない様子だった。思ったよりも状況はかんばしくない。昔のようにすがられたり、暴力をふるわれる心配はないが、母の様態を見て複雑な気持ちになる。
 ふと、母がふるえる指でどこかを指した。そちらに視線を向けると、テーブルの上に花束が置かれている。たしか、緑から白へと変色するアジサイ――アナベルだったか。

「これを僕に?」

 母に問いかけると、よわよわしく頷いた。アナベルの花言葉は、知ってる。とてもきれいで不思議な花だから覚えていた。

『辛抱強い愛情』

 僕はなんともいえない気持ちになった。愛してくれていたのか、母のことだから「あんたがいなくなったから私は」とすがっているのか、言葉を話すことが難しい今はもう分からない。
 だけど、僕が帰ってくると聞いたからわざわざ用意してもらったのだろう。

「ありがとう、母さん。また来る」

 僕は花束を抱えて家を出る。黒い傘を広げて、グレーの空を見上げる。結局、僕は母さんをほうっておくことはできない。
 アナベルの花言葉には、もう一つある。『ひたむきな愛』、僕は母さんからの愛情を信じることにしようと決めた。父がいなくなる前、ただ僕に優しかった遠い遠い記憶に想いをはせた。

6/13/2024, 3:40:27 PM