母さんの指輪を埋めた。
去年の夏に肺炎をこじらせてからというもの、母さんはみるみる弱っていく。もともと虚弱な身体を繋ぎとめていた命の糸が、めぐる季節とともに少しずつほどけていっているのだとわかった。
いつからから、母さんは自分のことをあまり話さなくなった。ベッドで横になっている時間のほうが長くなった。そして調子の良さそうな日は、料理本やガーデニングの雑誌、好きなキャラクターの小物まで、淡々と捨てていった。
ついに、母さんの大事にしていた白バラの小径も「管理しきれない」ということで刈り取られることになった。庭を囲う艶やかな白バラは、僕が生まれた日に植えたのだという。母さんが死んだ後にもずっと咲いてくれるものだと思っていた。
母さんはこの世に存在していた痕跡すら、露に消してしまおうとする。
ただひとつ、桐ダンスにしまいこんでいたそれを除いては。
「これはね、お棺に入れてほしいの」
白いオパールがついた銀の指輪は、痩せ細った母さんの指にすっかり合わなくなってしまっていた。
「母さんが死んだらね、一緒に燃やしてね。」
風薫る昼下がり、母さんは穏やかに眠っている。
僕はポケットに指輪をしのばせ、スコップを手に庭へと飛び出した。
白バラの蕾はすでに膨らんで、赤ん坊の唇のようにみずみずしく震えている。このまま風の匂いすら知らず、永遠に咲くことはないのだろう。
数日後には切り取られてしまう、その根本にスコップを突き立てる。湿った匂いが立つ。冷たい土に触れて、小さい頃にもこうやって母さんと蝶を埋めたのを思い出した。
花から花へと舞う姿が美しかった蝶、青い斑点のあるやつを、母さんは特に気に入っていた。僕はそいつを捕まえて、花と一緒にガラスケージに閉じ込めた。
翌日にはガラスケージのなかで萎びていたのに僕はひどく動揺して、泣いてしまった。
「皆、最期はこうなるから。」
あのときも母さんは淡々と土を掘り、涼やかな横顔で蝶に土を被せていた。イヌノフグリを摘み取ると、そっと置く。
「蝶のお墓、二人だけの秘密ね。」
カツン、とスコップの先に小石があたった。
どこに蝶を埋めたのか、思い出せない。
母さんは覚えているのだろうか。僕らの秘密を。
蝶を死なせたのは僕だ。捕まえたとき、僕の手のひらで蝶はもうぐったりしていた。
あの日も、母さんは僕を咎めることはしなかった。
泣きたくなるほど小さな指輪に、そっと土をかけてゆく。白いオパールがきらりと反射して、静かに濡れているようにみえた。
『二人だけの秘密』
5/4/2026, 9:19:56 AM