燻る一筋の煙を前に、青年は静かに手を合わせて目を閉じる。
多く想う事があるのか。口元を僅かに緩め、黙祷を捧げる青年はしばらく経過してもそのままだ。
不意に、気まぐれな風が青年の髪を揺らす。戯れるように、慰めるように吹き抜けるその風の心地良さに、ようやく青年は目を開けた。
目を細め、笑う。まるで泣いているようにも見える笑みを湛えて手を伸ばし、目の前の墓石を優しく撫で上げた。
「分かったよ。もう行くから…またな」
呟いて、静かに墓石から離れる。手桶と、仏花を包んでいた紙を手にして、ゆっくりと去って行く。
深い悲しみを纏ったその背を見送って、目を伏せた。
「どうした?やけに元気がないな」
「――別に」
聞こえた男の声に、視線も向けずに一言だけ返す。
「別に、って様子じゃねぇな」
「何もない。何も出来なかったから、何もない」
何もなかった、と繰り返す。見上げたままの空に、一筋流れた星を認めて眉を寄せた。
あの星は、きっと何も応える事が出来ずにただ消えていくのだろう。今も聞こえ続けている、切実な願いや思いは叶う事のないまま、涙と共に落ちていくのだろう。
役立たず、と八つ当たりのような感情に、歯を食いしばる。誰かに当たるしか出来ない自分が、何より醜く役に立たないモノのように思えた。
「馬鹿か。いつまで引き摺ってんだ」
呆れた声と共に頭を軽く叩かれる。叩いた手はそのまま髪を無造作に掻き回し、そこでようやく男に視線を向けた。
「別に、引き摺ってない」
「引き摺ってんだろうが。今日もわざわざ様子を見にいったんだろ?」
風から話を聞いたのだろう。男は態とらしく溜息を吐きながらも、その眼は咎めるように鋭く自分を射竦める。それを睨み返しながらも、握り締めた手が僅かに震え出す。
「言ったはずだ。望み、願われるもの全てに。応える事は出来ねぇって」
「だけどっ!」
静かな言葉に、叫ぶように言葉を返す。風が宥めるように周囲を吹き抜けていくが、一度言葉にしてしまえば止められなかった。
「俺が。俺がもう少し早く、願う声の元へ行けたなら!もっと早く声に応えていれば、助けられたかもしれないのにっ!俺が、」
「いい加減にしろ」
静かな、けれど強い響きを纏った声。思わず肩が跳ねて、口籠もる。
「餓鬼が。偉そうに囀るなよ。早く応えていれば助けられた?笑わせるな。飛ぶ事を覚えたばかりの餓鬼にゃ、何も出来ねぇ。精々が何も出来ない己の無力さに、泣くくらいだろうさ」
男の目に侮蔑が滲む。容赦ない言葉の刃に逸らしたくなる目を、頬の内側を強く噛んで必死に耐えた。
分かっている。自分に出来る事などほんの僅かだという事は。それでも、もしもを考えて止まらなくなる。あの時こうしていれば。選択肢を間違えなければ。早く行動出来ていれば。
――もっと早く飛べたなら。
「驕るなよ。俺らに出来るのは限られた事だけだ。人間の運命や生死に関与できると思うな」
「――分かってる」
「分かってねぇよ。俺らはただ、切っ掛けを与えてやるだけだ。深く関わろうとすんじゃねぇ」
「分かってるって」
父と空を飛びたいと願った子の、蝕む病を取り除いたように。
家族に心配をかけぬように、大切なモノと共に歩いていけるように願った子の、目を奪う呪いを解いたように。
願いの最初の部分を応えるだけ。そんな事、初めから知っている。
耐えきれなくなって俯けば、抱き寄せられて背を撫でられる。宥めるような、慰めるようなその温かさと優しさに強く目を閉じ、血の味がするほどに強く頬の内側を噛みしめた。
「まったく…あの人間の願いに、ちゃんと応えられただろうに。あれが最良だった。俺もそうしたさ」
――いなくなった妹に、もう一度逢いたい。
それがあの青年の願いだった。願った時にはすでに遅く。体を家族の元へと返し、刹那の夢の逢瀬を与える事しか出来なかった。
あれからずっと、青年は時間を作っては墓前に足を運んでいる。そしてその夜には必ず星空に向けて、ありがとう、と呟くのだ。
それが酷く苦しい。感情を押さえ込んだ感謝の言葉に、押しつぶされてしまいそうになる。
ひゅっと、呼吸が乱れる。目を閉じても込み上げる熱さに、手のひらに爪を立てながら男の肩口に顔を押し当てた。
「人間の願いなんざ、叶わねぇのが殆どだ。叶わねぇから人間は夢を見て、努力をする。その合間の囁きに、気まぐれに応えてやるくらいが丁度いいのさ」
「でも。そんな、の」
「相変わらず真面目だねぇ。風に愛されるだけの事はある…ほら、いい加減泣いちまえ。申し訳なさとか、そんなん気にしてんな」
男の手が一層優しく頭を撫でる。乱れる呼吸と、一筋だけ流れてしまった滴に男は苦笑して。
頭を撫でる手を止め、耳を塞いだ。
「今は何も聞くな。泣きたい時くらい、好きに泣け」
「――っう。ふっ、く…ぁぁあっ!」
耐えきれなかった涙につられ、声を上げて只管に泣く。
肩口が濡れていく事を厭わずに、男は耳を塞ぎ続ける。
しゃくり上げる度に、呼吸が苦しくなる。それでも止める事など出来ず、段々と意識がぼやけていく。
苦しい。眠い。疲れた。
泣き疲れ、穏やかさにも似た凪いだ気持ちで男に凭れ。そこでようやく手を離された。
たくさんの願う声が聞こえ出す。けれどそれは遠く、はっきりと聞き取る事が難しい。
「取りあえず、もう寝ろ。何にも考えず、酒に強くなるような叶わん夢でも見て、やな事全部忘れちまえ」
男の声だけははっきりと聞こえる。何だそれは、と反論したいが、枯れてしまった声はもう吐息しか出せはしなかった。
馬鹿、と心の中だけで悪態を吐く。抱きかかえられ、再び頭を撫でられて、意識が沈んでいく。
――叶わぬ夢なら、とっくに見てる。
男に追いつきたいと、その隣と飛びたいと。
その夢に向けて足掻き続けている事に、男はいつ気づくのだろう。
20250317 『叶わぬ夢』
3/17/2025, 1:59:12 PM