ゆじび

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「記憶の海」

ピ...ピ...ピ...ピ...
ここはどこでしょうか?
どこかの病室?
お薬の匂いが鼻を掠めます。
お花の良い香り。
周りを見渡すと色とりどりの花が飾られています。
看護師さんが慌てて外に出ていきました。
するとすぐに、お医者さんと私の両親が病室に入って来ました。
入ってくるなり、母さんは私に記憶はあるのか聞いてきました。
何を言っているのでしょうか。
私にはしっかり記憶があります。
私の名前は、神崎葵。23歳。
ちゃんと覚えています。
母さん達は何か話しています。
たまに「紅」と言っています。
私は母さんに紅と言う人は誰なのか聞くことにしました。
母さんは一瞬驚いた顔をして、すぐに少し明るい顔をしました。
母さんは私に優しく語りかけてくるような声で私に言いました。
「紅くんの事は自分で思い出しなさい。」と。
私は意味が分かりませんでした。
紅とは誰なのか。
でも、目が覚めて想っていたことがあります。
沢山の花のなかで、桃色の一つだけ懐かしいような寂しいような香りがする花があるのです。

ある程度回復し、退院をしました。
私はなぜか心に穴が出来たかのようで、ぼーっとしてしまいます。そこで散歩に出掛けることにしました。
公園の前を通った時、小学4年生位の男の子が話しかけてきました。
「お姉さん知ってる?海っていうのはねぇ、蒸発するんだよ。でもね海は無くならないんだー。蒸発しても雲になって雨になって、川になってまた海に戻ってくるんだよ。」
男の子は話し終えるとすぐにどこかへいってしまいました。
でも、私は少し納得したような気がしました。
海の話は誰もが知っている事ですが、私はなぜか記憶は海のように消えてしまっても帰ってくる。
そう思いました。


僕には結婚を約束した人がいました。
僕は彼女のご両親にもご挨拶に伺いました。
もう1ヶ月もしたら式をあげる予定でした。
でも、僕は彼女を守る事が出来ませんでした。
彼女は交通事故に巻き込まれました。
僕はそこに居合わせました。
僕は彼女を守れなかった。
頭へのダメージが大きく、記憶が消えてしまってもおかしくない。と言われました。
僕は彼女から離れることにしました。
だって、僕は守れなかったから。
僕にあって事故の事を思い出すと傷ついてしまうと思いました。
それに、なにも出来なかった自分はかっこが付かないので。
ご両親にこの事を話すと、渋々わかったとおっしゃいました。
僕は彼女に会いに行きました。
もちろん目は覚ましてしませんでした。
恐らく僕は彼女の元を離れたくなかったのでしょう。
この時、目を覚まして欲しいと想いました。
最後に桃色の花を置いていきました。
僕と彼女の好きな花です。
プロポーズをしたときもこの花を渡しました。
僕は病室を後にしました。



目を覚ましてから一年ほど経ちました。
未だ「紅」のことは思い出せません。
今では散歩をすることも習慣になりました。
明るい日向が、暖かい木漏れ日が私の心を落ち着かせてくれます。
そろそろ家に帰ろうかと角を曲がりました。
すると懐かしいような香りが鼻を撫でました。
どこかに居る気がするのです。
久しぶりに走りました。
「紅」が居る気がするのです。
「紅」の顔は分かりません。でも、見たら思い出す気がしたんです。
香りが強くなった頃、私はとある男性に抱きついていました。
彼は驚いた様に「葵?」と口にしました。
私は彼の背中に顔を埋めて言いました。
「紅逢いたかったよ」って。
なんだか記憶が帰ってきたようでした。
彼と過ごした記憶があります。
私、ここまで帰ってこられた。
ただただ嬉しかった。

貴方に逢えてただ嬉しかった。






これは子供によく話す
私と夫の結婚する前のお話です。


5/14/2025, 2:42:27 PM