『人生=旅』だとしたら、旅が終わるのは、魂(”わたし“)が肉体から離れるとき、つまり死が訪れるときだろうか。それとも、肉体から離れた魂は、”わたし“としてその後も旅を続けるのだろうか。
“わたし”は、いつまで存在するのだろうか。“わたし”の意識の期限はいつまでなのだろうか。
“わたし”の終わりが、肉体における死だと仮定すると、産声をあげたときを0、心臓の鼓動が止まるときを100とすると、今はどの地点にいるのだろうか。
わたしは、漠然と平均寿命くらいまで生きるのかなと考えているが、人生何が起こるかわからない。なんの前触れもなく、魂は肉体から離れていくかもしれない。
しかし、「明日死んでも後悔のないように生きよう」という考えに切り替えることは、わたしにとっては難しい。それはきっと、明日死ぬ確率よりも、平均寿命くらいまで生きる確率の方が高いという考えが根底にあるからだと思う。
そのため、わたしは”今“に集中しようとしても、1ヶ月後、半年後、1年後…、の不安や心配が押し寄せてくる。気がつけば、“今”が過ぎ去っていることがよくある。
これをどうにかして、“今”に集中できる方法はないか、考えた。すると、人生を旅に例えることを思いついた。
旅に行くとする。期限は決まっておらず、電話で呼び出しがあると、家に帰らないといけない。
行き先はどこでもいい。飛行機でいく海外でも、バスでいく東京でもどこでもいいが、自分が今住んでいる街からは出ることを条件とする。電話があったらすぐに帰路につかなければいけないが、それまではどんな遠くに行ってもよい。
そうすると、わたしはどこでなにをしたいと思うだろうか。期間はわからない、資金は現在所有している資金に加えて、旅の途中で仕事をして増やすこともできる。
わたしは、旅では、旬の食材を使ったおいしいものを食べて、四季を感じる景色をみて、伝統文化や歴史的建造物をみて触れて、本を読んで、とやりたいことはたくさんある。これに並行して、何かしら誰かの役に立つことや、だれかの気持ちが少し軽くなるようなことをしたい。例えば、迷子になったこどもを交番に送り届けたり、道の端で泣いている人がいたらなにがあったか話をきいたりなどである。
今の自分の状況から離れて、人生を旅に例えたら、自分が人生において何を大切にしたいか、価値観がみえてきた。
また、旅は、人との出会いと別れがどちらも訪れる。短い人だと、観光地で写真をとってほしいと頼まれてから写真を撮り終えるまでの1分間かもしれない。長い人だと、出会ってから電話で呼び出しがあるまでずっと一緒に旅を続けるかもしれない。
今の自分の状況から離れて、人生を旅に例えたら、人との出会いと別れは必然だといえる。新たな場所で気の合う友達ができたり、長年の友達と連絡をとらなくなり、疎遠になってしまったり、大切な人が亡くなってしまうことなどがある。
悲しいことだが、どれだけ避けようとしても、人とともに生きていく限り、人との別れは避けては通れない道である。しかし、別れのあとには新たな出会いは必ずあること、一度切れた縁が、つながりを復活する可能性も0%ではないことも確かだ。
このように、人生を期限の決まっていない旅に例えると、自分が大切にしたいものや価値観、人との縁の儚さと素晴らしさに改めて気づくことができる。
そして、現在置かれている現状にうんざりしていても、今この場所は旅の途中でありら多くの人が自分の過去を知らないため、だれも気にもとめていないと思い、肩の荷を軽くして自分のやりたいように生きていことができる。
このように、今の状況を悲観することにがんじがらめになり、辛い気持ちになったら、人生は旅であり、今は”旅の途中”であることを思い出していこうかと思う。
______旅の途中_______________________________________________。
1/31/2025, 3:05:25 PM