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誰か
(ご注意、この話には性的描写が含まれます!)


きっかけは、星宮あかりの結婚だった。
みんなで集まった食事会、あかりがいつもの調子で、まるでなんでもないことのように「私結婚するの」と報告した。
私たちは隣同士でそれを聞いていたからだった。
私はなんとなく、あかりは彼と結婚するのだと思っていた。彼とあかりは一時、別れたり離れたりを繰り返していたし、私から見てもお互いに気を許し合ってているように見えたから。
おめでとう、と笑った彼が体を強張らせているのが隣にいて分かった。
食事会の最中、隣同士の私たちは何度か身体が接触する機会があり、何度目かでそれは意図的になった。私はテーブルの下で彼の脛に自分の脛を擦りつけるようにして席を立った。

彼とホテルに向かう道で私が思っていたのはあかりのことだ。あかりは夫になる人のことはあまり話さなかったが、満面の笑顔でこう言った。
「結婚したら私、名字は夫のものにするの。だってコンプレックスだったんだよ、この名字。星宮だなんてキラキラしすぎ。星宮あかり、なんて売れない地下アイドルみたい」
あかりが昔同じことを言った時、私は「いい名字だよ、すごく素敵だしあかりに合ってるよ、私は好き」と言った。私にとってあなたは夜空で輝く星そのもの、なんて思いを込めたけどそんなこと伝わるはずもなく。
あかりの結婚相手は、日本中どこにでもいるような名字だった。「結婚したら平凡な名字になるのが一番嬉しい」とあかりは笑っていた。
結婚して名字が変わったって何も変わらない……あかりが違う誰かになるわけじゃない。
私がそんなことを考えている時、彼は何を思っていたんだろう。無言で私の手を握りしめた彼。私とは全く別の思いでいたとしても、あかりのことを考えていたのは確かだ。

その夜、ベッドに沈んで、私たちは私たちじゃない別の誰かになった。
今夜頼れるなら誰でもよかった、そう囁いたのは彼なのに、やたらと優しい触れ方をするから笑ってしまう。そんなのこっちのセリフだよ。
だからそんなに丁寧にしなくていいよ。
ここにいるのは、私じゃないしあなたじゃない。
名前を呼び合うような愛し方は、いつか巡り会う伴侶のためにとっておきなよ。
今はただ、忘れるために。
お互いの名前も、あかりの名前も。
暗がりで、彼の手が直接私の形をなぞる。肌で感じるだけが全て。
最初はぎこちなくても、呼吸は乱れて皮膚はざわついて敏感に欲を感じ取る。溶けていく場所がある、内側に。そこがわかったらもう迷わないでいい。
──男の人とのセックスで一番好きじゃないのは、中へ中へと分け入ってくる無遠慮さだ。でもこの時ばかりは四股を絡ませ夢中で彼の切実さを抱きしめた。
早く圧迫して欲しい……願った通りの質量で彼が胸を押し付けた時、私は完全に私じゃ無くなった。
私たち、同じ眼差しであかりを見ていた。だから私は彼を抱きしめたかったし、彼だってとっくに知っていたはず。私のあかりに対する気持ちはいつだって隠し通せるものじゃない、同じ熱量で彼女を見つめる彼の前では。
誰かの大切な存在になれない私たちは、肌に隙間ができないくらいぴったりと抱き合って一つになる。
それでも彼と懸命に揺らし合いながら、ふと冷静に思う。このセックスに満たされる瞬間があるんだろうか、と。ああ、そんなの後で考えればいい。このうねりの前では抗えない。もうどこかの誰かでいる必要なんてない。今はただ熱く昂って、落ちて溶けて消えるだけ。



眩しい朝の光で目覚めた時、彼は早々に服を着込んでいた。
ベッドに腰掛けて背を向けたまま、私にペットボトルの水を差し出してくる。
私は気だるさの残る身体を起こして水を受け取った。小さな声で彼が言う──ごめんな。

「なんで?謝られるようなことしてないし」
「いやだってさ、こういうのはあまり……」

彼は口を濁す。言いたいことはよく分かる。みんな言うんだよ。愛のないセックスなんて傷つくだけだって。でも気にしないで。例え傷ついたとしても、それは私じゃないしあなたでもない。別の誰かが傷ついただけだから。
多分私はそんなことを口走った。彼が私を申し訳なさそうな目で見るのが、やっぱりおかしくて笑ってしまう。そしてその時私が考えていたのはやはり、あかりのことだった。
本当にあの子は結婚しちゃうんだ。結婚して誰かの妻になって、星宮っていう特別な感じがする響きから平凡な名字で呼ばれるようになる。名前が変わっても、あかりがあかりでなくなるわけじゃない──そう信じたい。だけど結婚っていうのは、彼女をもう私が知っていたあかりじゃない、別の誰かにしていくような気がしていた。

「……あかりは、幸せになるのかな」

私の呟きに彼は返事をしない。ただ、静かに私の肩を引き寄せた。彼の胸に身を預けながら私は目を閉じる。さっぱりとした朝の光が私たちを包み込んでいた。

10/4/2025, 12:38:59 AM