伝えたい
もう一度会って、「ありがとう」と伝えたい。
そんな人が、誰の人生にも一人くらいはいるのではないだろうか。
二十年前、私は名古屋の小さな食品卸売会社で営業として働いていた。
学生時代、特にやりたいこともなく、受かった数社のうち唯一の内定先だった。
あの頃の私は、どこにいても居場所がないような感覚を抱え、何をしても没頭できずにいた。
営業の仕事は、今のようにスマートフォンやAIのない時代だった。
一軒一軒チラシを配り、反応のあった家を地図を頼りに訪ね、会員を獲得していく。
ある日、上司から、大きなマンションの最上階の一室を訪ねるよう指示された。
オーガニック食品の顧客は、退職後にゆとりのある人か、子育て中の家庭が多い。
扉を開けると、初老の女性が立っていた。
私は営業用の笑顔をつくり、いつものように商品と会員制度の説明を始めた。
そのとき彼女は、ふとこう言った。
「あなた、若いころの私に似ているわ」
私は思わず、彼女の瞳を見つめた。
彼女もまた、静かに私を見返していた。
「きっと今のあなたのように、私もどこにいても所在がなかったの」
彼女は玄関先に腰を下ろし、少し笑った。
「こんなおばあちゃんでもね、昔はけっこうモテたのよ。
かっこいい恋人が何人もできても、仕事で成果を出しても、心は満たされなかった」
そして、少し間を置いて言った。
「そんなとき、私を満たしてくれたのは、本だったの」
「本の中には、私がいた。
それが嬉しくて、食事から栄養を吸収するみたいに、本を読んだの」
「するとね、少しずつ世界が輝きはじめた。
日常のすべてを感じられるようになったの」
「私にとって生きることは、手で、目で、鼻で、口で感じて、想像することなの」
彼女は、穏やかに微笑んだ。
「そして今、私は小説を書いているの」
気づくと、私は涙を流していた。
「だからあなたも、きっと大丈夫」
それからどうやって会社に戻ったのか、
そのマンションがどこにあったのか、
二十年の歳月が記憶から消し去ってしまった。
彼女は、もうこの世にいないかもしれない。
それでも、彼女の言葉は今も私の中に残っている。
私はもう、あの頃のように居場所を探してはいない。
私の居場所は、彼女と同じように――言葉の中にあったのだから。
2/13/2026, 7:04:56 AM