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明日の私はいずこ(テーマ 理想のあなた)


「君たちの明日を考えてみてほしい。未来の君たちだ。」

 平社員だった私たちに、研修で部長は言った。

「係長でも、課長でも、部長でもいい。想像してみてほしい。君たちは平社員の3倍の仕事をして、下から上がってきた書類をさばき、同時に部下の面倒を見て、上司のサポートをする。部下からは理想の上司とされ、上司からは頼りになる部下と言われる。」

 部長は『理想』とホワイトボードに書いた。

「一方、今の君たちはこのどれでもできるだろうか。人の3倍の仕事は?部下からは理想の上司と見られるマネジメントは?上司から「頼りになる部下」と見られる?」

 今度はさっきの左下に『現実』と書く。そして2つの間に矢印を引いた。

「ここからここまでの間は、毎日仕事をこなすだけでは埋められない。これは分かるか?ただ日々の仕事をこなすだけでは、仕事を3倍のスピードで片付けられないし、それをやりながら部下を見ることも、上司をサポートすることもできない。努力がどうしても必要だ。それも、並々ならない努力を、継続しないと無理だ。」

 その後も、部長は色々言っていた気がするが、覚えていない。
 ただ、その頃の私は『研修とはいえ無茶苦茶言うなあ』とは思っていた。



 係長になった私は、あの言葉の真意を悟っていた。

 仕事は山のようにあり、早朝から深夜まで働いても片付かない。
 自分の仕事が、だ。

 部下は仕事量が多くて文句ばかりで、私は『気持ちは分かる』と、同僚のように言うばかりだ。 

 仕事が多すぎる、人は増えないのか、と上司に訴えるが、答えはいつも同じだ。
『人は増えない。そもそも、仕事が多いから減らして、人が足らないから人を増やして、と言えば人が増えるなら、みんなそう言い始める。』

 それは詭弁だ、と喉元まで出る。
 それが通用するのは、仕事量が増えていないときだけだ。仕事を増やす方は増やして、人は増やせないというのは単純におかしい。

 つまりは、だ。
 あの研修で部長が言っていたことは、理想論的な努力論ではなく、単なる事実、宣言だったということだ。

 君たちの仕事を増やします。

 その上で、部下の面倒も見てもらいます。上司のサポートをしてもらいます。

 日々の仕事をしているだけでは追いつきませんよ。


 部下は早々にメンタルの診断書を出して休みに入った。
 その部下の分も仕事があふれる。

 休んだ部下の代わりは入ってこない。


 どうすればよかったのか。

 どうすれば、あの研修で部長が言っていた『理想の私』になれたのか。それとも、そもそも無理な話だったのか。

 今の私は6時に職場へ行き、22時まで仕事をしている。仕事をしていない時間は8時間で、そのうち6時間は睡眠だ。残り2時間で、職場と自宅の移動、食事、シャワーなどを済ませる。

 のんびりした時間などない。


 それでも、自分の仕事を片付けるのが精一杯。


(そもそも、そこまで私生活を犠牲にしないといけないのか。)

 今の仕事は、自分にとって『理想の仕事』などではない。

 やりたかった仕事は、自分に才能がなかったとか、食っていけないとかで早々に諦め、サラリーマンになった。

 しかし、サラリーマンはこうも生きづらく、皆バタバタと倒れていく。


 自分は夢のために、私生活を一日二時間まで切り詰めたりしなかった。
 だから能力が伸びず、挫折した。

 しかし、今は、別にやりたくもなかったサラリーマンで居続けるために私生活を一日二時間まで切り詰めている。『理想のサラリーマン』になるために。

 笑ってしまう。


 なんだ。

 結局、ここまで切り詰めた努力がいるなら、好きなことで苦労した方がマシだったではないか。

 『食っていけないから』として諦めた夢は、見切りが早すぎた。『そこそこの努力で食っていけるから』と選んだサラリーマンは、見立てが甘すぎた。


 我慢や諦めは必要だが、私は方向性を間違っていたのではないか。

 好きな人を勝手に諦めたが、好きでもない人と結婚するために努力を重ねる。

 好きな仕事を諦めたが、好きでない仕事のためにそれ以上の努力をしている。


 ピントがずれている。


 人生を、見直さないといけないのではないか。


 理想の私はどこにいる。

5/20/2024, 8:28:31 PM