川柳えむ

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 朝早く起きて、ご飯を食べる暇もなく出勤して、仕事して、理不尽なことで上司に怒られて、昼食取りながら修正して、残業して、夜遅くに会社を出て、コンビニでご飯を買って、家に帰って、買ったご飯を食べて、風呂で寝落ちて、寒くなって目が冷めて、布団に入って、ようやく寝る。
 そんな日々の繰り返しで、自分が何の為に生きているのかわからなくなった。
 そんな頃、いつもと少し違う日があった。
 会社を出て駅へ向かう途中に、怪しげな女の人がニコニコ笑いながら立っていた。女の人の隣にいたおばさんが「あなた、不幸そうね」と私に言ってきた。気分が悪い。
 無視をして通りすがろうとしたら、そのおばさんが私の腕を掴んできた。
「何するんですか!」
「あなた、運気が下がっているわ。幸せになりたいでしょ? これ読んでみて」
 おばさんが冊子を渡してきた。表紙には『風水で幸せになる』と書かれていた。胡散臭い。
 ふと顔を上げると、隣でニコニコ笑っているだけの女の人と目があった。女の人は益々笑顔になった。穏やかな笑顔だ。
「なんと、今ならこちらの先生が直々に風水のことをお話してくださるわ。どう? こんなところで直接お話してくださる機会なんて滅多にないわよ!」
『先生』と呼ばれた彼女が、私の頭に優しく触れた。
「毎日頑張っているんですね。偉いですね」
 とても優しい声色で私に語り掛ける。その瞳は穏やかで、何もかも見透かしているような、そんな眼差しをしていた。
 頑張ることは当たり前だ。頑張らないと何もできない。それなのに、それだけの私を褒めてくれた。偉いと言ってくれた。それだけで、全てが満たされた気がした。独りでに頬を涙が伝っていく。
「大丈夫。これであなたも幸せになれます、必ず」
 全てを包み込むような温かい声が響く。安らかな瞳で、私の心に訴え掛ける。きっとこの人は、疲れ切った私に同情した神様が遣わしてくれた存在に違いない。
 そしてこの時から、私は本当に幸せになれたのだった。


『安らかな瞳』

3/14/2024, 10:55:34 PM