わたしには、”自分”がなかった。
わたしはこれまで、『周りから求められている自分』を演じてきたように思う。それは、人から嫌われたくない、必要とされたいという思いがあったからだと思う。
『周りから求められている自分』が、『おもしろい人』だと思ったら、ぼけたりおかしなことを言ったりして、求められている『おもしろい人』の像に近づこうとした。
こうして続けているうちに、『キャラをつくっている』といわれるようになった。それからは、つくっていると思われると嫌われるのではないかと思って、自然にみえるように努力した。
また、わたしは自分の気持ちを伝えることは、わがままなことであって、それは『周りから求められている自分』ではないと思い、自分が本当はどうしたいかという気持ちを封じてきた。
こうしているうちに、わたしは、『周りから求められている自分になろうとする気持ち』が『自分は本当はどうしたいのかという気持ち』を飲み込み、自分を見失っていってしまったのではないかと思う。
わたしには好きなことがある。アニメをみることが好きだ。おいしいお菓子を食べることは好きだ。だから、好きなものを自分で選択することはできる。
しかし、これまで人生の分岐点となる大きな選択を、”自分”でしたことは一度もない。
わたしは周りの人たちから、たくさんアドバイスをもらった。
アドバイスのなかには、疑問に思ったり、自分にはできそうにないと思うものもあった。
わたしは、気づかないうちにもらったアドバイスを全て実践しなくてはいけないと思うようになっていたのだと思う。
アドバイスをもらい、それを実践するかどうかは、本来自分で決めることだ。
しかし、わたしは自分はこうしたいという気持ちがあっても、『周りから求められる自分』になるために、どうするべきかについてとらわれてしまったこと、また、自分に自信が持てないために、自分の選択は間違っているのではないかと思ったことにより、自分の気持ちよりも世間一般的に最善とされている道を選んだ。
そして、今、自分が納得できていないまま決断したことによって、自分がした選択を後悔している。
わたしは、今、自分がどうしたいか、何ができるかを一つづつ丁寧に考えていきたいと思う。
①自分がこれから進みたい道を決める。そして、なぜその道に進みたいのかを深く考える。このとき、一般的にどうすべきかや、周りの人にどう思われるかは置いておき、自分の思いだけで考える。
②他の道もあるという選択肢を教えてもらう。
③他の道をよく知った上で、自分の進みたい道を選ぶかどうか決める。(納得したら他の道でもOK、しかし、本当に納得して決めたことなのか自分自身と対話して確認する。)道を選ぶときは、どれだけその道を進みたいかという思いと、その道を選んだときのリスクを天秤にかけて、それでもその道を選ぶのか、決心をつける。
④その道を歩く上で、自分がなにを優先したいか考える。(お金?プライベートとの両立?)
⑤どうすべきかや、周りの人にどう思われるかは考えてないことを再確認して、歩き始める。
これらの過程を経て、わたしは“自分で納得のいく選択”ができるとわかった。
この選択が正しいかどうかはわからないし、不安は残ると思われる。
しかし、自分で納得して決めたことは後悔しないと思う。
まっすぐな道を歩く、しばらく歩いたら道が分岐している、どの道が正解かわからない、怖い、でも、選んだ道がたとえ行き止まりだったとしても、道を引き返すことはできる。
正解の道をより早く見つけて進むことが一番いいと思われがちだが、行き止まりにたどり着くまでの道の途中にも、たくさんの発見がある。
その発見は、道を引き返してから分岐点に戻り、道を選び直すときや、選んだ後に道を進んでいくときに、きっとわたしの、君のお助けアイテムになってくれるはずだ。落とさないように大切に抱えていこう。
そして、そのアイテムは、いつか誰かの明日を照らす光にきっとなる。
時間は戻せないけれど、来た道を戻って道を選び直すことはできる。来た道を戻る過程では、前には進まなかったけれど、発見として得たものは確かにあった。
前進、後退を繰り返し、その中で発見をしていくこと、その発見を大切にしながら生きていくこと。それが、”明日に向かって歩くこと”だと思う。
_____________________________________________________________________________明日に向かって歩く、でも__________________________________________。
1/21/2025, 7:53:14 AM