正直/
自分本位な正直者は言う。
あいつなんか調子乗ってて嫌い。
あの絵の何がいいのかよくわかんない。
なにこの味、なんか不味い。
思いやりのある正直者は言う。
私とはノリが合わないだけなのかもしれない。
あの絵はどういう意味なんだろう。
初めて食べる味、何か入れて味変してみようかな。
両者に嘘はない。
しかし思いやりが無ければそれはもはや正直者ではなく愚か者である。
そんな者に限って
嘘つけないからさ、などと得意げに鼻を鳴らす。
マイナスなことを極力プラスにしようと努力し捉えようとする人は言葉を繊細に使います。
自分の気持ちを嘘偽りなく、かつ正直に良く伝えられる人は思いやりがある頭の良い人です。
あぁ。私は頭が良く思いやりのある正直者でありたい。
___________________
梅雨/
今宵は泡のように淡く儚く美しかった。
やけに現実味を帯びたあじさいが朝焼けを浴びている。
わたしは静かに目を閉じる。
両手を広げ息を一息吸い込んだ。
雑味のない空気が鼻の奥を一瞬刺激する。
なぜか泣きそうになり空を見上げた。
はたから見たら変人だろうな、とよぎったが今だけは浸っていたかった。
足元も口元も目元も緩みきっていた。
朝のコンビニは車が出たり入ったり忙しそうに稼働している。
ふと、停まってある車の中から目線を感じたので
そちらに顔を向けると、ガラス越しにおじさんがこちらをじっと眺めていた。
わたしはアイドルのようにニコニコして見せた。
じっと目を見つめ狂気とも言えるとびきりの笑顔で。ドギマギして目線を逸らしたおじさんの前をふふんとした態度で横切る。
決まった!というよくわからない感情と同時に転ばなくてよかったとも思った。
わたしは今、無敵だ。誰にも覆せない幸せの中にいる。
昨晩はとても良いお酒であった。
大好きな彼と知り合い夫婦の生まれたてホヤホヤ赤ちゃんを一目見にお邪魔させてもらい、皆でお酒を嗜んでいた。彼と私が良い仲だとは誰も知らない。
小さな手、小さな足、くるくると変わる表情、そんな赤ん坊を見つめる夫と妻。
愛らしい以外の言葉が見つからないほどしっくりと愛らしいと感じていた。わたしは時折こっそりと彼を見つめた。すぐ隣に座る彼の手に触れたくなったが近くに置くだけで我慢した。
ほろ酔いの入口でそろそろ、と夫婦宅を後にする。妻と赤ん坊の余韻を漂わせながら、我々のみっつの影は街灯に照らされていた。これから始まる宴の夜にゆらゆらと揺れ、伸びて。
電車に揺られ一駅先で待つ友人と落ち合わせた。友人はまだ酔っていない様子でしかし笑顔はもうすでに酔っているかのような笑顔だ。
よっつになった影は飲み屋街のギラギラと眩しい光に消えしっかりとした姿を映し出している。
ガヤガヤとした大衆居酒屋にガラリと入り、何人ものスタッフの威勢よい出迎えを受ける。
夫、彼、私、笑顔の友人の順に列をなす。
奥に夫、手前に彼、と、テーブルを挟み向かい合わせに座るふたりにわたしは迷い困っていた。流れ的に奥に座るのが普通だが手前の彼を通り過ぎることに躊躇していた。彼の隣に座りたかったのだ。
困る私にこっちに座れば、と彼は助け舟をさらりと出す。
不自然に彼の横に座ることになったが内心安堵し喜びに胸を躍らせていた。
夫くんは不思議そうな顔を一瞬見せたがすぐにメニューへと目線を落とす。
笑顔の友人はやはり笑顔だった。
第二幕が開始され徐々に解きほぐされていく心に誰もが気持ちよくなっていた。
チンチロゲームをして倍のジョッキがドカドカ届く。途中で信じられないほど濃いお酒が届いた。どこにでも怖い先輩というのはいるもので何度も同じ事を聞きづらいということはどこかで経験したことがある人も多いだろう。
最近入った新人がそんな怖い先輩にお酒の分量を聞けなかったのではないだろうか、と憶測で大いに笑った。
最初は近況やら趣味やらの現実めいた話だったのがお酒と共に徐々に輪郭を失った話へと移行していく。内容の無いくだらなさが一番笑えて面白い。あれ、なんで笑ってたんだっけ、と思い出せないくらいが一番面白い時だ。
空いたグラスやお皿で埋まっていくテーブル。店員さんは相変わらず忙しそうで威勢が良い。
時折その店員さんも巻き込んだりして、いよいよ腕相撲などという力比べ大会が始まった。おぉーという興奮の声をかわきりに、勝った、負けた、とコロコロと表情を変え夢中になる大人たち。赤子に負けず劣らずだ。
そんな一体する空気がなんとも心地よく、わたしは静かに微笑み見守っていた。
アルコールの入った脳というのは面白いもので普通では躊躇するような事がひょうひょうと出来てしまう。
その居酒屋には壁にびっしりと店員さんが考えたであろうポエムらしきものがいくつも貼ってあるのだが、そこから突如五七五大会が始まった。
人は大会が好きなのだろうか、、、
各々笑わせるような五七五の言葉を綴る中、
わたしは立ち上がる勢いでこう言い放つ。
「忘れない、このひとときを、忘れない」
どうか皆様、空気の読めないわたしをお許しください。笑いでは無く、本心を言いたくて言いたくて仕方が無くなったのです。と心の中で呟いた。
本気で思い、本気で噛み締め、心の底から出た渾身の言葉は周りの陽気な笑い声と活気に煙のようにうやむやになってしまったが私は本音の言葉が出たことに満足していた。
まぁあわよくば、煙を誰かが吸い込んで少しでも体に残ってくれたら、とも思ったが。
楽しい時間はいつまでも垂れ流せない。大人になると尚のこと。終わりの気配に少しずつ平常な顔に戻っていく私たち。冷めているのではなく、冷ましていると言ったらいいだろうか。
夢から現実に引き戻される瞬間。
これほど嫌な時間はない。
いつの間にか彼が会計を終え、知らない同志達に手を振り会場を後にする。
皆でタクシーに体を滑り込ませ、余韻の中に浸り揺られていた。
バタン、笑顔の友人が笑顔で帰っていく。バタン、夫が妻と子の待つ家へ帰っていく。
急に静かになった車内になぜだか緊張が走るがずっと望んでいたように心地よい。そっと繋がれる手。運転手さんが気付いているのか気付かないふりをしているのか分からずドギマギしていたわたしだが、次の瞬間にはもうどうでもよくなっていてただ心が熱くなるのを感じていた。
バタン。タクシーの扉が閉まる。
その音と共に私の熱は6月の寒空の風がひやりと静かに冷ましてくれた。
ふたつになった影がくっついたり離れたりしながら夜道を歩いていく。
人通りが無いことをぼんやりと確認した彼は少し強引にキスをした。
あぁ。また熱があがってしまう。6月の風では冷ませないほどに。
バタン。
冷蔵庫を閉じる音に愛しささえ感じてしまう。
「何か飲む?」「うぅん、飲みたい」
彼があまり飲まないことを知っている。半分より気持ち少なく入れた緑茶を彼は美味しそうに飲み干した。
もうすでに外は明るく閉められたカーテンの隙間から日が漏れている。
薄暗い部屋、ぼんやりとした頭で彼の顔を眺めた。
別れ際に余韻は無い。余韻を感じるほどの余裕は無く、心がいっぱいに満たされ隙間が無いのだ。
少し微笑んでまたね、と言い、彼は車の影に身を
落とし帰っていった。
道路に薄っすらとひとつの影が動き始める。
色味のないコンクリート、錆びた手すり、剥がれた止まれの文字、少し重い体で歩を進める。
ようやく余韻に浸っていると、そんな暗い色味の中、急に視界の端に現れたあじさいにはたと目がとまり立ち止まった。
あじさいはしっかりと色彩を放ち確かにそこに存在していた。
、、、綺麗だなぁ
朝露に濡れたあじさいは汚れが落とされ凛と清らかに咲いていた。
あぁ。幸せだ。わたしは今幸せだ。
余韻では無い、確かなことだった。
バタン。
コンビニで色々買い込んだビニール袋の音が玄関が閉まる音と重なり、歩くと袋の音だけがやけに響いた。
ガサガサとレモンティーを取り出しゴクゴクと思いきり喉を潤す。
少し開いたカーテンの日に照らされたレモンティーがキラキラと光っている。
あぁ、おにぎりも買えばよかったな、そんなことを思いながら新しく買ってきたタバコに手を伸ばした。
ふぅと煙を吐き出したところでぼんやりとさっきのコンビニの光景を思い出す。
浮かれていたな、、、と少し身を縮めたくなった。
ところであの車のおじさんは今頃になって恐怖しているのだろうか。
幸せに満ち満ち溢れたわたしの笑顔と喜びの舞に。
そんなことが頭をよぎり、わたしはたまらなくおかしくなってふっと笑ってしまうのだった。
6/2/2024, 5:41:50 PM