名無しの夜

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 お気に入りの白いふわふわのスリッパが足から滑り落ちるのが見える。

(え、嘘——)

 一瞬の、浮遊感。

 そして即座に全身に悪寒が走る。

(お、落ちる——……ッ!!)

 ジェットコースターの頂点から叩き落とされるような下降感に体中が軋む。

 悲鳴すら上げられず、溜まった息が気管支の中で爆発しそうに——……


「ッ——ハァッ!!」

 全身が波打つようにして、ベッドで目覚める。

 心臓はドクドクと激しく鳴り、こめかみが痛むほど脈打っている。

「夢……」

 荒く息をつきながら、足を両手で撫でる。

 落ちていく感覚は足にまだ残っていて、ザワザワとした嫌な感触を振り落とすように。


 ——何で、あんな夢を。

 落ちる夢なんて、縁起でもない。

 時計を見れば、いつもの起床時間より数十分早い。

 大きく溜息をつきながらもう一度横になり、不安を払拭したくてスマホを覗きこんだ。

 夢占いのサイトを開いてみる。

 落ちる、落下、の項目は残念ながら良いことの前兆などではなく、言葉の印象そのままの事象が並んでいた。

「……疲れている、ということかしら」

 食生活もこの頃は出来合いの物ばかりだった。

 たまには自炊しようかな、と考えて少し早目に起きだした。


 自炊を頑張り。
 眠る前と起きがけのストレッチをしてみたりと、少しは私生活を整えているつもりだった。

 それでも、『落ちる』夢を見る。

「何なの、どうしてなの……?」


 落ちていく時の。

 全身に走る落下感の空気、風の感触が生々しすぎて、眠るのが段々と恐ろしくなっていた。

 眠って、あの夢で起きるのが嫌で仕方がない。

 けれど、眠らずにいられる訳がなく。


 休日の午後、ソファでうたた寝をしてしまった。


 ふと寝覚めたのは、雨の音。


(いけない! 洗濯物……!)

 慌てて起きて、ベランダに面した窓を開ける。

 勢いあまって。

 そのままベランダに出かけて、咄嗟に窓枠を掴んだ。

 ビタッと前のめりになって体は止まったが。

 ベランダの床につきそうになっていた右足から、白いふわふわのスリッパが。


 するりと、足先から抜けて。

 緩やかな放物線を描き。

 手摺の柵を抜けて、階下へと落ちていった。

6/19/2024, 5:34:34 AM