風が吹いた。かなりの強風だった。咄嗟に鞄で抑えていなければ、スカートは無惨に捲れていたかもしれない。放課後とはいえ、学校にはまだ生徒が残っている。スカートは死守したけれど、前髪はカップラーメンの蓋みたいになってしまった。
ふと幼い頃の憧憬が頭の中に広がって、人が飛んでしまう風速はおよそ何mなのか調べた。
気象庁が出している『風の強さ』によると、非常に強い風の場合、何かにつかまっていないと立っていられないとのことだった。人が風に乗って飛ぶために必要な風速は、残念ながら明確でないみたいだ。
たとえばこういうのはどうだろう。私は夢想する。
とても頑丈で大きな傘を作り、それを両手にいっぱいの力を込めて握る。あとは風に煽られるのを待つ。たんぽぽの綿毛のようにとは流石にいかないけれど、私の身体が作り出す跳躍よりは、高く遠くへ運んでくれるはずだ。自分の力ではないものに引っ張られてふわりと宙に浮くのを想像して、少し胃のあたりが落ち着かない。
もしくはこう。鞄の取っ手にヘリウムガスの入った風船を沢山つけて、あとは風に煽られるのを……。
「何してんの?」
努めて隙のないように作られた、氷柱のような声に私は我に返る。気づかない内に、私は空想の私と身体を重ねて、風に煽られた風船付きの鞄を高く掲げていた。待ち合わせのポーズとしては、そぐわなかったかもしれない。私は慌てて、前髪を感じの良いように整えた。
「別に、なんでもないよ」
リンちゃんはため息を一つ吐いてから、
「まぁ、いいけどさ」
と、的確なリズムで歩き出した。私は彼女の足音が好きだ。こつこつと正確に歩くことで自分を律しようとしているその足音が、リンちゃんの人柄を表しているようで胸が高鳴る。だから彼女の隣を歩く時、私の鼓動は不規則に揺らめく。
帰路の途中、小路を抜けて都市部に出たところだった。また、風が吹いた。吹き抜けていくその感じに、私は違和感を覚えた。
「結構強かったね」
「うん、それに、風っぽくない感じがした」
「どういうこと?」
リンちゃんはその違和感をキャッチしていなかったようで、私は急いで付け足した。
「えっとね、吹き抜けていくときに、なんか、変に真っ直ぐな感じというか」
あんまり、自由な感じじゃなかったかもと、私は締めくくった。
リンちゃんは、捉えどころのない私の言葉をどうにか捕まえようと、唇を引き結んで思案した。
しばらく歩いた。リンちゃんといるとき、私は沈黙が気にならない。それが断絶によって生まれるものではなく、互いに了解した上でのものだからだと思う。
こういう沈黙が生まれた時、私は周りの音を聞く。前を歩く学生の話し声、車のエンジンが立ち上がるときの音、横断歩道のスピーカーから聞こえる音。雑多な音が混ざって、風がそれらを掠めて運んでいく。
最後の想像は、風の話をしていたからかもしれない。
陽が傾き始めて、春の油断ならない冷たさが肌に突き刺さる。
「ミユキが言ってるのって、ビル風、のことかもね」
思案の海から言葉を引き揚げたリンちゃんは、抱きかかえた子猫を寝床へ戻すような慎重さで、そう呟いた。
「ビル風」
「そう、ビル風」
リンちゃんはそれから、ビル風について説明してくれた。凄く乱雑にまとめてしまうと、高い建物があるところでは、強い風が吹くということだった。
「ビル風はさ、ある程度どんな吹き方をするのか決まってるらしいから、ミユキにはそれが不自由に感じたのかもね」
リンちゃんの言っていることは、正しいように思えた。リンちゃんはこうやって、形のない私に言葉で輪郭を与えてくれる。
「じゃあ、リンちゃんはビルで、私はビル風なんだね」
「どういう意味なの、それは」
私は考えた。どういう意味なんだろう。
「私といると、ミユキは不自由なわけ?」
視線はあくまで前を見据えたまま、リンちゃんはそう言った。その頬は、夕陽とは違う赤に染っていた。こういうところが、たまらなく可愛らしいと思う。
「不自由だけど、不自由な方がいいの」
私は言った。それは私の中で、東からくる太陽よりよほど真実だった。私は夢想する。
私は風に身を任せて飛んでいる。そしていつか、私はその風と自分とが一体化するか、風と自分を切り離して、地面へ打ち付けられるかの選択を迫られる。私にとっての自由とは、そのどちらかの結末を選ぶしかないということだ。だから、私の気持ちは、地球をひっくり返したって見つからないところに隠しておく。それは不自由だけれど、それでいい。
「……ミユキがそれでいいなら、いいけどさ」
リンちゃんは、輪郭の作れそうにない言葉に関して、そのまま呑み込んで胸の内にしまっていてくれる。それが私にとってどれほど嬉しいことなのか、おそらく彼女は気づいていない。
風が吹いた。名前のない、自由な風だった。彼らはいずれ、私の気持ちも体温も、全てを掠め取ってどこかへ運んでいく。
私は身震いをした。リンちゃんがそれに気づいて、気遣わしそうに私を見た。いても立ってもいられなくなって、私はリンちゃんの手を握った。迷子を導くような、指先に優しさの伝わる握り方ではなく、親指から順に、心臓まで絡めとってしまいそうな気持ちで、指を絡めて握った。
リンちゃんは驚いていた。握られた手を見て、私の顔を見て、そして歩道の模様を見つめた。
私はぱっと手を離して「ごめんね」とだけ言った。近くに立っていたくたびれたサラリーマンが、探るようにこちらを見ていた。私たちのことなんて、家に帰れば忘れてしまうくせに。
リンちゃんが顔を上げた。リンちゃんは握られた方の手首を、もう片方の手で掴んで胸の辺りへ持っていき、最終的に、私の方へと差し出した。
「……不自由な方が、いいんでしょ」
恐る恐る、私は人馴れしていない野良猫のように手を繋いだ。リンちゃんが、指を絡めて私の手をぎゅっと繋いだ。
風が吹いた。名前のない自由な風が、私を運ぼうと強く強く吹いた。私を風から守るように、リンちゃんの手が私をつなぎとめた。
5/14/2026, 6:37:29 PM