次に目が覚めた時、日はすでに高く昇っているようであった。
ベッドから抜け出し、カーテンを開ける。明るい日差しに少女は目を細め、深く息をした。
無事に朝を迎えられた。その事実が何よりも少女を安心させた。
「――準備、しなきゃ」
呟いて、少女は窓に背を向ける。頭の中で予定を組み立てながら、身支度を整えるため部屋を出た。
少女が居間へ下りると、すでに仕事へと出たのか両親の姿はなく、祖母が一人椅子に座り微睡んでいた。
祖母の横を通り過ぎ、台所へ足を踏み入れる。昨日見た悪夢が尾を引いているのか、食欲はない。
それでも何か口にしなければと、食パン一枚をトースターにかける。冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出してコップに注ぎ、一息に飲み干した。
意識していなかっただけで、喉は渇いていたらしい。空のコップに麦茶を注ぎ足し、焼き上がったパンを皿に乗せて居間へと向かった。
居間ではまだ、祖母がゆらゆらと微睡んでいる。年のせいか最近は会話も難しくなってきている彼女だが、この家については誰よりも詳しい。特に家の守り神については、少女も幼い頃に祖母から聞かされた事があった。
――先祖を助け、この地まで導いたとされる守り神。
幼い頃に聞かされた物語であった故、少女はその話の殆どを覚えてはいない。だが何故かその守り神が気になり、食パンを麦茶で流し込んでから、祖母へと向き直った。
「ねぇ、おばあちゃん。この家の守り神様って…誰なの?」
祖母は答えない。
少女は一つ息を吐き。空になった皿とコップを持って、立ち上がった。
「――たら、……さ…せ」
小さな囁く声が聞こえた。少女は足を止め振り返る。
祖母は変わらず俯いている。しかしぽそぽそとした何かを語る声は続いていた。
「どうしたの?何、おばあちゃん」
祖母へと近づく。先ほどよりは聞こえるようになった声は、だが何を言っているかまでは分からない。皿とコップを机に置き、少女は身を屈めて祖母の口元へと耳を寄せた。
「夜道で迷ったなら、北の星さ探せ。北の星は動かんからの」
眉を寄せる。何が言いたいのだろうか。
言葉の真意を尋ねようと、少女は祖母へと視線を向け。
静かに見つめる祖母と、目が合った。
「おばあ、ちゃん?」
「燈里《あかり》。夜道で迷ったなら、北の星さ探せ。燈里を導いてくれるべな。んだども」
真剣なその眼差しに、少女は何も言えずに息を呑む。祖母の痩せた手が少女の頬を撫で、忠告する。
「トウゲン様にゃ、気ぃつけぇ。望み過ぎたら、持ってかれるけぇの」
トウゲン様、と祖母は言った。
それは少女の家に代々奉られている、神の名だった。
「それって、どういう」
「気ぃつけぇ、燈里」
忠告を繰り返し、祖母の目は虚ろに閉じていく。
細い呼吸は弱いながらも規則正しく、寝入ってしまった事を示していた。
「おばあちゃん」
どこか途方に暮れる気持ちで、少女は身を起こす。
これ以上は何を聞いても答えはもらえないだろう。仕方がないと諦めて、少女は洗い物を手に台所へと向かった。
洗い終えた皿とコップを片付け、少女は何度目かの溜息を吐く。
考えるのは、先ほどの祖母の言葉だ。
北の星。導き。トウゲン様。手がかりを求めて祖母に尋ねたというのに、逆に分からない事が増えてしまった。
やはり、先生に尋ねるしかないだろう。昨日の放課後に見せてもらった資料だけでも、頼めば貸してもらえるかもしれない。
緩く頭を振って意識を切り替える。分からない事ばかりではあるが、出来る事は少ない。ならば先ずは出来る事から始めなければ。
学校は休みではあるが、おそらく先生は学校にいるだろう。出かけるための準備をするため、少女は台所を出て――。
「――え?」
まるで電気が落ちるように、目を塞がれるように。
目の前が暗くなる。
「え。何、何が…?」
慌てて振り返る。だが視界に広がるのは闇ばかりで、台所も居間も、少女が知る場所もものも何一つ見当たらなかった。
鼻腔を擽る湿った土の匂いが、ここが外だと伝えている。暗がりに慣れてきた目が、周囲の鬱蒼と生い茂る木々を捉えて、少女はふるりと体を震わせた。
暗い。目が慣れてきてはいるが、殆ど見えはしない。灯りがないからとはいえ何かがおかしいと、少女は空を見上げて気づく。
暗い夜空には、月がなかった。
朔の夜だ。頼りになるのは、無数に煌めく星明かりのみ。
――夜道で迷ったのなら、北の星さ探せ。
不意に、祖母の言葉を思い出す。
夜空で動かない北の星。方角すら分からない今、動かない星を探すなど出来るはずもない。そうは思えど他に頼る当てもなく、少女は必死で空を見上げて星を探す。
「――あれ?」
視界の隅。暗い道の先で何かの灯りが見えた気がした。
視線を戻し、辺りを見渡す。ある一点、ぼんやりとした小さな丸い灯りが見えていた。
そろり、と足を動かす。踏み出す先に、茂る草や岩などの障害物は感じられない。転ばぬようにゆっくりとした足取りで、少女は灯りの下へと歩き出した。
近づくにつれ、それは提灯の灯りである事に気づく。
誰かが提灯を手に、道に佇んでいる。それが誰であるのか、不安に竦む足を動かして、少女は提灯を持つ誰かの元へと歩いて行く。
「――先生」
「あぁ、やっぱりか」
見知った顔が見えて、安堵からか少女はその場に崩れ落ちた。今更ながらに恐怖が込み上げて、立ち上がる事など出来そうにはない。漏れ出る嗚咽を噛み殺して、少女は涙で滲む視界で彼を見上げた。
「どうして、ここに?なんで、私…」
「夢を見ただろう?この村の過去の夢だ。そして西の奴の声を聞いてしまっただろう?」
「この、村…?」
涙を拭い、少女は彼の背後に視線を向ける。小さな提灯の灯りだけでは、はっきりとは見えないが、朽ちた家らしき物の残骸が見て取れた。
「ここは宮代が今まで見てきた、村だった場所だ…どうする?」
「どうって。何が…」
困惑しながら、少女は彼を見る。何も分からないのだと、静かに首を振った。
「逃げるか、進むか…逃げた所で、時間稼ぎにしかならないし、終わる事もない。運良く逃げられても、他の誰かが選ばれるだけだ」
ひゅっと、悲鳴が喉に張り付いた。昨日見たあの小さな子供の目が脳裏を過ぎる。
「――進むとしたら?」
「怖い目にはあうだろうし、運が悪ければ取り込まれるが、終わらせる事が出来る」
膝をついて、彼は少女を見据える。笑みを浮かべた、それでいて強い目が、少女の選択を待っていた。
「私が取り込まれそうになったら、先生は助けてくれますか?」
「宮代がそれを望むなら、先生は助けよう」
昨日と同じ答え。少女は目を閉じ、深く呼吸をした。
目を開ける。真っ直ぐに彼を見つめて。
「お願いします。その時は、助けてください」
彼に、望んだ。
20250420 『星明かり』
4/20/2025, 2:13:41 PM