香草

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「青い風」

風が波をすくいあげて吹き上がる。
帽子が飛んでいかないように押さえつけるが、船が揺れるたびに体ごと持っていかれそうで手すりを掴んだ。
「大丈夫ですか?」
からかうような目で心配するのはダイビングチームのリーダーだ。
「船ってこんな揺れますっけー!?」
エンジン音に負けないように大声で叫んだけれど、とんでもない形相だったのかリーダーを爆笑させてしまった。
「今日は波が高めですからね!ダイビングポイントまでもう少し我慢してください!先にスーツ着替えておきましょう!」
生まれたての子犬ような足取りでリーダーの手を支えにして船内に戻った。
少し調子に乗って風に当たろうとしたのが間違いだった。ジェットボートがこんなに早くて揺れるなんて知らなかった。

慣れない手つきでピッチピチのスーツを着る。ストッキングを履くのも下手くそな私は途中で何度も手を止めてため息をつきながらようやく着た。
体のラインがはっきり出て少し恥ずかしい。
ダイエットしたんだけどな。たまのご褒美が良くなかったか。もう少し頑張ればよかった。
ダイビングの先輩たちは持参したボンベやフィンを確認している。私は初心者なので借り物で潜る。
おしゃれなフィンやグローブを見るたびに羨ましいという気持ちが膨らむが、値段を思い出すと途端に冷めてしまう。
「給料全部これに注ぎ込みましたー」
という笑顔がそら恐ろしい。
しかしそれほどまでに海の中は人を虜にしてしまうのだろう。
今回私は初めての実践ダイビングだ。これまで座学やプールで知識と要領を詰め込みやっと海に出ることが許された。
初舞台は沖縄。エメラルドグリーンの世界へ行く。

「ポイントつきました!順番で潜っていきましょう」
ボンベを背負いマスクを装着する。フィンを踏まないよう、ペンギンみたく船のヘリまで歩いた。
先輩たちが合図とともに背面からドボンと海に落ちていく。
流れでヘリに腰掛ける。
リーダーが海面から顔を出して呼びかけてくれた。
「さあ!初めてのダイブいきましょう!」
先輩たちが口々に行こう!フー!と盛り上げてくれるが、そのおかげで緊張していなかったのに心臓がバクバクする。
3、2、1!
空がひっくり返って冷たい水の感覚がスーツを貫く。
目が回り、体の自由が効かなくなるが、落ち着いて目を開く。
そこはまさに異世界だった。
ガラス越しにしか見たことがない魚や珊瑚。陸とは違う岩や砂。途端に無力な私。

リーダーとひもをつないで、泳ぐ。
鮮やかな鱗をきらめかせて泳ぐ魚の群れ。遠くでゆらめく光の梯子。艶かしくうねるイソギンチャクや海藻たち。ただフィンを動かして泳ぐことしかできない私たちはまさに自然界の君臨種とは思えないほど無力で、ただそれがなんとも心地よかった。
上を向けば自分の出した泡がブクブクと昇っていく。
やんて美しい世界なのだろう。
人魚になってこの世界に定住したい。
ずっとこのまま漂っていたい。
水を阻む装備がもどかしい。なんで私、海に生まれなかったんだろう。
リーダーの合図でゆっくりと浮上する。
レギュレーターを外し、大きく息を吸った。
「どうですか?海は?」
「最っ高です!」
肩で息をしながら思いっきり叫んだ。
風が顔を撫でていき、辺りを見回した。
青空と海、青い世界が私を包み込んでいた。






7/5/2025, 9:32:50 AM