黎明すいら

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ふと、ここではないどこかに行けたら、と思うことがある。今の日常に不満を持っている訳じゃない。

ただ、時折吹く風が、私の中に眠っている「重力」を少しだけ軽くしてしまうのだ。

その日は、季節の変わり目特有の、湿り気を帯びた生温かい風が吹いていた。ベランダに干したシャツが、まるで行き先を急ぐ旗のように激しくたなびいている。それを取り込もうと手を伸ばした瞬間、指先を風がすり抜けた。

「……あ」

声が出るよりも早く、私の体はふわりと浮き上がっていた。

驚きはなかった。
むしろ、ずっと前からこうなることを知っていたような、奇妙な納得感があった。スリッパが脱げ、足の裏が地面から離れていく。見慣れた街並みが、ミニチュアの模型のように遠ざかっていく。

風は、私をどこへ連れて行こうとしているのだろうか。
眼下には、さっきまで私が守っていた「平穏な日常」が広がっている。机の上に置いたままの読みかけの本、飲みかけのマグカップ、そして明日出すはずだったゴミの袋。それらは愛おしいけれど、今の私を繋ぎ止める鎖にはなり得なかった。

私はただ、風の行く先を追いかけることにした。
目的地なんて、風が決めてくれればいい。

4/30/2026, 2:50:28 AM