ほおずき るい

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「涙の恩恵」
昔々、ある村では水神の気分によって天気が左右されていた。
水神が人々の喜ぶ顔を見たり、花が綻ぶ様を見て喜べば晴れ、命が消えること、植物が枯れたことに悲しむと雨が降った。
ある年、水神のもとに1匹の白い犬が現れ、大変よく水神に懐いた。水神もまたその犬をよく可愛がった。
しかし水神が喜ぶと言うことは晴れると言うこと。
ずっと雨が降らず、植物は元気をなくし枯れゆく。
このままでは冬を越せないと思った村人たちは水神の前で水神が可愛がっていた犬を無惨に殺した。
殺された犬の血が水神の頰に着くほど間近で犬の死を見た水神は深く悲しみ、何日も雨を降らせた。

水神の愛犬を殺してからしばらくの間、雨がよく降った。むしろ日の光が欲しくなってくる頃だった。
悩んだ村人たちは相談の末、父親がいない家庭から母を人質に娘を脅し、水神の機嫌を取ってこいと言いつけた。
娘は人質の母を解放すると言う条件の元、水神が住む神社へ訪れた。
緊張で震える手を握りしめてふすまの外から声をかける。

「水神様、いらっしゃいますか」
返事がない。娘はほっとしたような、がっかりしたような気持ちのまま帰ろうとする。
その時、神社の中からか細い声が聞こえてきた。

「...何の用かね」
心臓の音が一際大きく聞こえた。
娘は今にも力が抜けそうな足を叱咤して返事をする。

「この村の者です。水神様に捧げ物をお持ちいたしました。開けてもよろしいでしょうか」
先ほどのようにすぐには返事がない。しかし娘はじっと返事を待った。
すると音もなくスルスルとふすまが開き、入れとでも言うように風が吹いて娘を押す。
娘は警戒しつつも開かれたふすまを通り、神社の中に入った。
娘が一歩踏み入れた瞬間、暗く灯りの一つもなかった部屋の中の灯台に次々と火が灯り始める。
部屋の奥の火が灯った時、娘は初めて水神の姿を見た。
昔、犬が死ぬ前の水神はよく村を歩き回り、村人と話を交わしていた。その時の水神は艶々とした水色がかった淡い白髪にふっくらと色づいた頬と優しく垂れた目元の美青年だった。
今、娘が見ている水神は虚な目、少しこけた頬、艶のない髪の毛をまとめることなく床に垂らしている。
娘は衝撃を受けた。
娘は遠くからだったが水神を見たことがある。恐ろしいほど綺麗だったことを覚えている。その微笑みや川のせせらぎのような声、全てが娘にとって神なのだと信ずるに足るものだった。
今や神というより病人のような風貌の水神にどう声をかければ良いのかわからなかった。

「お前は、村のはずれで母と暮らしている娘か」
「お、覚えていらしたのですか」
「無論。我が村を歩く時、いつも遠くから眺めておった。我に話しかけるでもなく、祈るでもなく、ただ、遠くから眺めているだけの変わった娘」
娘は気付かれていたことに恥ずかしく感じた。それに、自分の信仰心のなさを指摘されているようで少し居心地が悪いような気がした。
俯く娘の目に自分が持ってきた包みが入った。

「そ、そうだ、水神様、こちらをどうぞ」
娘が差し出した包みを不思議そうに首を傾げながら受け取る。
水神が包みを解くとそこにはいくつかの果物があった。

「...これはそなたらが食うものであろう。なぜ我に」
「元気がない時、母はよく果物を私にくれました。水神様も、元気が出ればと思いまして...」
よく考えれば村で祀っている水神ならもっといろんなものを食べているかもしれない。そう思った娘はだんだん恥ずかしくなってきた。実際水神は果物を手に取るだけで食べようとしない。

「我は要らぬ。お前が食べると良い。何も嫌いだから要らぬのではない。我は食物を必要としない。だが気持ちだけ貰おう」
そうそう言うと水神はおもむろに手にした果物に口付けた。
小さなちゅ、と言う音と共に果実が少し色褪せた。

「っえ...?いま、何が、」
「この果実に込められた感情を吸い取った。味に変化はないはずだ」
食べろとでも言うように差し出された果実を恐る恐る手に取る。

「本当にお召し上がらないのですか?」
「要らぬ。我は食べれぬし、食べれたとしても我が子からは取らぬ」
我が子
それは水神が村人に呼びかけるときに使う言葉。
水神は古くから村を見守っているから村人は我が子同然なのだそうだ。
では我が子が愛犬を殺したなら?
水神の悲しみは計り知れないだろう。
娘は自分の手の中にある果物を見る。一口も齧られていない色褪せたまんまるの果実。
これでは水神の機嫌を上げる足しにもならない。

「水神様、水神様の好きなものは何でしょう」
「藪から棒にどうした。我の好きなものなどもう無い」
娘は無性に腹立たしくて、悲しくて空っぽになってしまった水神が哀れでならなかった。
加えて水神をこんなふうにしてしまったのは自分たち村人だと思うと腹が立って涙が出る。
水神の表情のように色褪せた果実の上を水滴が滑り落ちる。
娘が涙を流すのを見て初めて水神の表情に変化が現れた。

「どうした、どうした娘、どこか痛いのか、泣くな、泣くな」
昔見た親子のように娘を抱きしめ、袖で涙を拭ってやる。よしよしと声をかけながら頭を撫でて落ち着かせる。
こうして娘と水神は数年に渡り心を交わし仲を深める。水神は喜びで空を晴れ渡らせ、感動で地を潤した。

そんな中、年頃になった娘が嫁に行く話を聞いた水神。娘があまり喜んでいない様子から望まない結婚だと思い、水神は塞ぎ込む。
水神が塞ぎ込んだのと同時に村の天気は大荒れ。土砂崩れが発生し川が荒れ、村の建物はほとんど流された。
娘の家も流されかけたが娘の母が庇ったおかげで娘は助かる。
雨が弱まった頃に娘が水神に会いに行くと水神は嬉しそうに娘を出迎えた。
途端に晴れた天気を見て娘は母を殺した水神に怒りをぶつけた。

「どうして普通に泣かないの!?あんたが泣いたから村は壊滅して母は死んだのに!」
娘が怒りの形相で掴み掛かったことに水神は一瞬戸惑いと悲しみが混ざった表情をしたのち、娘の手を握り、指を絡める
「天上から水神の役を遣わされた我は人と似た体を得た。人と感情を交わし、人が喜ぶときは天気を晴らせ、悲しむときは雨を降らすために感情を得た。だけれども、この体は涙を流す機能が備わっていなかった。ただ自分の感情で天気を左右するためだけに存在する我は何もできぬ。悲しみ怒るお前と共に涙を流すこともできぬ。だからお前が我を殺せ」
水神はそう言って娘の手のひらを自分の胸に当て、その上から自分の手を重ねた。
ずずず...と泥にでも手を沈めるかのような感覚と共に娘は自分の手が水神の体に飲み込まれていくのを見る。

「我は自分で自分を殺すことができぬ。この手足には天へと繋がる鎖が絡まっていてそのような行為をした途端に鎖が引っ張られ動けなくなる。我が悲しめば我の代わりに空が泣く。だがその涙は可愛い我が子を悲しませ殺してしまう。ならお前が終わらせてくれ」
娘の指先に何か温かいものが触れる。思わず握ると水神は大量の血を口から吐いた。

「嗚呼、」
微笑みながら小さな嘆息と共に血を吐く水神は倒れる直前に何かを呟いた。

「我も鎖を断ち切れたのなら」
後半はあまりにも小さすぎて娘には聞こえなかった。

3/9/2025, 10:22:47 PM