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お題『優しさ』

 夜更けのキッチンに湯気がゆるやかに立ちのぼっていた。
 テーブルに並ぶ二つのマグカップ。その片方を、猪野はそっと七海の前に差し出す。
「はい、カモミールティーです。眠れそうにないって言ってたから」
「ありがとうございます、猪野くん。相変わらず気が利きますね」
 七海はそう言って微笑む。その声音はいつも通り丁寧で、けれどどこか柔らかい。
「七海サン、今日の任務きつかったでしょ」
「……そうですね。ですが、こうして帰る場所があると思うと、不思議と耐えられるものです」
 カップを両手で包み、七海は小さく息をつく。猪野は迷いなく距離を詰め、その肩に自分の額を預けた。
「無理しなくていいのに。俺の前では」
「……そう言っていただけるのは、ありがたいですね」
 拒まれないことに胸が温かくなる。猪野は腕を回し、ゆっくりと抱き寄せた。
「七海サンはさ、優しすぎるんだよ。いっつも自分のこと後回しにして」
「君も同じでしょう? お互い様です」
 そう言いながらも、七海はそっと琢真の背に手を置く。その仕草は遠慮がちで、けれど確かだった。
「……君の優しさに、私は何度も救われています」
「俺のほうこそ! 七海サンが優しいから、俺もそうありたいなって思うんです」
 しばらく言葉はなく、ただ心音だけが重なる。やがて七海が小さく微笑んだ。
「この時間がある限り、明日からも頑張れそうです」
「俺もです」
 静かなそのやり取りだけで、二人には十分だった。

1/28/2026, 12:25:26 PM