夜の散歩
「来い」
夜半過ぎ、遅くまで書類を読み込んでいた私の下へ来たのはヴァシリーだった。彼は一言だけそう言うと、私に向かって手を差し出す。
断る理由が無いから、その手を取った。彼はぐいっと腕を引っ張って私を抱きかかえると、そのまま部屋の窓から外へ出た。
季節は夏から秋へ。変わり目ということもあってか、夜は冷え込むようになった。それを配慮してからか彼は私を抱えた時、部屋にあった毛布を引っ掴んで私ごと包む。
「何も無いか?」
「大丈夫。ありがとう」
「今日は新月らしい。何も見えないが、それはそれで楽しいだろう?」
「ふふ。うん、とても」
生活棟の屋根から屋根へ。空を飛ぶようにヴァシリーは走っていく。時折感じる浮遊感が心地よくて、私は終始にこにこ笑っていた。
「楽しそうだな」
「そう?」
「笑っているのが見えるからな」
「そういえば、夜目が効くんだった」
そうして、地面に降り立ち歩き始める。生活棟を抜け出して、街へ出る。いつもなら賑わう街はしんと静まりかえっていて、別世界に来たような気さえする。
「……静かね」
「そうだな」
「何だかあの時を思い出すわ」
「出会った時の話か?」
「ええ。こんな風に暗くて、誰もいなくなってしまって。……あの時はすごく、怖かった」
「………それは、今もか?」
顔をあげると、ヴァシリーは静かにこちらを見ていた。しかし、気遣うようなその視線は何処か子供のように幼く感じる。
彼なりに案じてくれているのかもしれないと思い、私は笑う。
「大丈夫。今は、怖くないよ」
「そうか。……俺は、お前の苦しみが分からない。知ることも出来ない。悲しみも何もかも」
「そうね」
「だが、こうして居場所になることは出来る。お前が望むなら、俺の隣がお前の帰る居場所だ」
「!」
「不思議なことだが、お前が少しでも見えなくなるとどうしているのかと考える。次は何を教えようか、何をして遊ぶか、そんなことを考えている」
「………」
あのヴァシリーが他人のことを考えている。そのことにただ驚いて、目をぱちくりとさせていると、不機嫌そうに彼が睨む。
「何だ、その顔は」
「あなたが誰かのことを考えるのって、珍しいって……」
「失礼な娘だ。教え子のことくらい考える師は幾らでもいる」
「それでもあなたほど気まぐれな師はいないわ」
「お前のように豪胆な教え子もおらんな」
そうしてまた彼は歩き出す。
気の向くままに、飽きるまで、この暗がりの中で。
私たちは散歩をする。
きっと、彼が飽きる頃には私は夢の中だろう。
10/28/2023, 11:48:22 AM