【心の健康】
学校の課題を見てもらおうと夜雨の部屋のドアを開けたら、部屋の主は床でだらりと伸びていた。
体調でも悪いのかと心配したのも一瞬、寝ていたわけでもないらしい黒い瞳が瞼の下から現れて、春歌を認識するや否やまた隠されたので、そういうことでもないらしい。すぐ側にベッドがあるのに、なぜ特に柔らかくもないラグの上で横たわっているのか。
春歌は夜雨の頭の辺りにしゃがみこむと、つんつんとその肩をつついた。
「どしたの。疲れてる?」
返事はないかもなぁと思ったが、しばらく間を置いた後、ごろりと寝返りを打った夜雨は、目も開けないまま億劫そうに口を開いた。
「……疲れてるっつーか。疲れては、ない」
そうして重そうに体を起こしたかと思うと、後ろのベッドに背中を寄りかからせる。
「元気なんだよな、身体は。全然動ける。けど、なんて言うか……HPは満タンなのに、MPが足りてない感じ。……わかるか?」
あ、マジックポイントって言っても、魔力とかじゃなくて、なんかこう精神力的な感じのヤツ。そう続ける夜雨に、なるほど、と頷く。春歌はゲームはあまりやらないが、なんとなくイメージは掴める。
要するに、心が弱っているから体も動かないのだろう。
どうしよう、と悩んだのも束の間、春歌に思いついたのはひとつだけだった。
「ねえ、よく聞くやつだけどさ、ストレスにはハグ……」
「ハグするとストレスが軽減されるとかそういう話ならすんなよバカ。定番すぎて本当に言い出す奴がいるとは思わなかったわバカ。そもそも誰がするんだよバカ。お前がすんのか? ないだろバカバカ」
まだ言いかけだったのに噛みつかれた。早口で勢いよく言われたので、そのまま耳を通り抜けてしまった。夜雨にしては子供みたいな罵倒をするな、ということだけが意識に残る。照れから来る物言いだとわかっているので、腹も立たない。
「わたししかいないじゃん。恥ずかしがることないよ、ちょっとぎゅってするだけだよ。小さい頃はやってたよ」
別に春歌にも羞恥心がないわけではないが、目の前の相手に先にあからさまに恥ずかしがられてしまっては、まあいいかという気持ちになるし、なんならもっと恥ずかしがらせて困らせてやりたいという気持ちも湧いてくる。
両腕を広げて身体を寄せると、夜雨がその分だけ引いた。
「バッ……! マジでバカ! アホ! 近寄んなバカ!」
「まあまあ。よいではないか、よいではないか」
悪代官の気分でにじり寄ると、夜雨が立ち上がって逃げようとしたので、その隙を逃さず、春歌はがばりと飛びついた。
「きゃ、きゃああああぁ!」
夜雨の動揺にまみれた悲鳴が響き渡った。
後で春歌は夜雨に、『絹を裂くような』という言葉と、その意味を教えてもらった。
顔を真っ赤にしながらぷんすか怒っている夜雨はとても元気そうだったので、ハグはすごい。
8/14/2023, 9:10:05 AM