猫宮さと

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《やわらかい光》

ここ最近、あまりに気忙しい。

大量の書類を読み、内容が適正であればサインをし、各所に回す。
差し戻しであれば、修正指示を書面にまとめる。
場合によってはそれが議題になり、討論が行われる。
そして時折、旧皇帝派からの妨害により混乱を巻き起こされることもある。

僕は、毎日それを繰り返している。
慣れているだろうと言われればそれまでだが、やはり心が閉塞的になることもある。

そんな時に訪れる、急激な孤独感。

僕は幼い時に親を亡くし、残った兄姉に疎まれて育った。
それでも兄姉に認められるために頑張ってきたが、それが叶わぬままに兄姉は国に処刑された。
僕を守り育ててくれた乳母…正体を隠した実の母も、僕を庇って兄姉に殺された。

僕は、人には恵まれたと思う。
正義感から国にも疎まれ他国に左遷されたが、そこではたくさんの良き人達に巡り会えた。
邪神討伐を経て知り合えた仲間達も、今でも親しく交流している。

が、それでもふとした時に眼の前が暗くなる。
自分は一人なのではないか。
心に、どんよりとした雲が掛かる。

今も机に肘を立て、組んだ両の手に頭を支えて暗闇に耐える。

ふぅ…。

胸に吸い込んだ息を、思わず一気に吐き出した。
その分、次の吸気は自然と大きくなる。

その吸気の中に、ふわりと暖かく芳しい香りが加わった。

驚きふと顔を上げると、眼の前には湯気を上げたティーカップを持った彼女が立っていた。

「あの、そろそろ一休みした方がいいかと思ったので…。」

そう言って、彼女は僕の机にソーサーに乗ったティーカップをそっと置いた。
先ほどの暖かく芳しい香りの正体は、この紅茶だった。

鼻を擽る香り高い湯気が、少し心に隙間を作る。

「手間を掛けさせて、すみません。自分で淹れたのに…。」

そうだ。自分のことは自分でするべきだ。
周りに、気を使わせてしまった。

心の隙間から漏れ出してしまった、自分の闇。
その漏れた物に、僕自身気付いていなかった。
ぼんやりと暗くなる思考。机の紅茶に落ちる、僕の視線。
するとその上から、彼女のそっと柔らかい声が聞こえた。

「…いつもと逆ですね。謝らなくていいですよ。」

ハッとして、彼女の顔を見る。
彼女は慈しむような表情で、少し寂しげな瞳を僕に向けていた。

「貴方は責任感が強いから、全部自分で何とかしようとしてしまう。こんなほんの小さな、お茶を淹れるくらいの事まで。」

彼女は紅茶のソーサーに指を当て、スッと縁をなぞりながら言った。

「周りには意外と、何かを助けてくれる人がいるものですよ。ほんの小さな事でいいですから、貴方の抱えるものを誰かに預けてみてください。」

誰かに、預ける。
それは、怖くはないのか。
厭われは、しないのか。

そんな無意識の不安が、頭を過る。
頑張らねば、励まねば。
幼少よりの意識が、強く心を支配する。

「大丈夫です。少なくとも、私はそれを嫌だとは思いませんから。貴方が預けてくれるものならば、喜んで引き受けますから。」

だって、貴方は絶対に私に無茶な願い事をしないでしょう?

暖かな紅茶の湯気の向こうで、ふわりと暖かな微笑みの彼女が僕にそう告げた。
自分を傷付けることはないと、僕に大きな信頼を寄せてくれている彼女の優しさ。
小さなことでも何かを預けられる安心感を、僕は与えられた。

ほろり、ほろりと解けていく、僕の心。
解けた心の大きな隙間から、僕の心の闇を晴らすやわらかな光。


「…はい。ありがとうございます。」


かつて僕を疎んだ、この祖国。
家族も皆、喪った。

それでも、ここにいても今の僕は一人じゃない。
それは、どんなに心強いことか。


「いいえ。いつも紅茶はストレートですよね。それじゃあ…。」

そう言って離れようとする彼女に、僕は咄嗟に答えた。

「あ、今回は砂糖を入れてもらえますか。一つ。」

シュガーポットを見てお願いすると、彼女が嬉しそうに頷いた。

「珍しいですね。じゃあ、一つ。」

小さな角砂糖を一つ、彼女が僕の紅茶に入れる。
綺麗な赤い波紋が、白い器の中に広がる。
彼女はその赤い波紋をそっとスプーンでかき回し、すっと僕に差し出した。

「はい、どうぞ。」

僕は彼女に礼を言い、受け取った紅茶を口に含んだ。
口内に広がる馥郁たる香りとほんのりとやわらかい甘さに、自然と顔が緩む。

うん、美味しい。
今日の気分は、この優しい甘味だ。

10/17/2024, 9:48:30 AM