てふてふ蝶々

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長い長い列を並び、早々と次の階段に行く奴やなかなか時間のかかる奴がいる。

私の前に並んでいた奴は早々次の階段へ進んだ。

天国の門で、優しそうなお爺さんに
「あなたの名前はなんですか?」
って聞かれた。
私は
「名前とはなんですか?」
と答えた。
お爺さんは、
「一番たくさん言われた言葉ですよ」
って。
私は
「可愛いって言われました」
と、答えた。
お爺さんはにっこりして門を開けて私を次の階段へ送り出してくれた。

他にもたくさんの言葉をもらった。
「いい子」とか「お利口さん」とか。

「ダメ」と「いけない」も小さなときはたくさん言われたけれど、それをやめたら「いい子」や「お利口さん」って言われたから同じくらい言われた言葉だと思う。

朝起きたら「おはよう。今日も可愛いね」って言われて1日が始まるし。お散歩にいけば、知らない人からも「可愛いですね」
毛を切りに行くところに行けばみんなが「可愛いくなったね」って言われた。
お留守番の長い日は「ごめんね」って言われた。
そのあとに美味しい物をくれたし、「可愛い」をたくさん言われながら膝の上を独占した。

私が死んだ時、みんなが泣きながら。「ありがとう」も言われた。何度か聞いたことあるような気もする。

やっぱり一番言われたのは「可愛い」
なかなかいい名前じゃないか。
可愛いって言う前になんか言ってたような気もするけど、「たくさん」可愛いとか「いっぱい」可愛いとかそんな感じかな。
凄く凄く愛してるよって伝わったから、私の名前は「可愛い」で間違ってない。









余命の残りはそんなにないはず。
シワだらけの私にはそんな事はどうだっていい。
この世に未練もない。
私の人生、失敗だらけ。
早く終わりの時が来て欲しいのに、なかなかお迎えはこない。
自分の希望は罷り通らない。
さもしい人生だった。終わってないけど。
もう何十年も一人きり。
気の合う友達はみんな先に逝った。
金もないその日暮らしになったのは自分のせい。
若かりし頃に生き別れた我が子はもう50も過ぎた頃だろう。
私の人生、何一つ残せなかったなんて言わない。
私はあの子を産んだ。
私の生まれた意味はあの子だけ。
あの子の名前は夫がつけた。長男だからと。
そんな事はどうだっていい。
臍の緒、写真、何も持たずに追い出された。
あの子には私の記憶はないだろう。
過ぎた事は仕方ない。
酒もタバコもギャンブルも、やらなかった。
死んだような毎日を過ごしただけ。
良い頃合いだと、スラムのような若者の街に行く。
怪しげな若い男にこちらから声をかけるが、なんせ私は年寄りで、気味悪がってまともに話も聞いちゃくれない。
十数人目のナンパの末に聞き出した彫り屋さん。
トントンとドアをたたいて
「ごめんください」
ギギッと開いたドアの向こうにはあちらこちらにピアスや入れ墨の男。私より若いが年配だ。
「なんぼかかっても構わないからニ文字だけ鎖骨の下に掘りもんしてください。」
男は、
「金はいらんよ。何と彫る?子の名前か?」
私と似た奴もおるらしい。
「子の名前を彫れんから、呼び名の二文字を平仮名で」
男は施術台と言うには年季の入った部屋を指さす。
ベッドだったらしき物に腰掛ける。
お互い無言。
白紙とペンを渡されて、彫って欲しい文字を書く。
歳のせいか、お世辞にも綺麗とは言えない字。
男は無言で紙を濡らし、私の鎖骨の下にその紙を貼る。
しばらくして紙を剥がすと紺色にその字が残っている。
「あんたの書いた字の通りに彫ってやる。」
そう言ってそっとベッドに押し倒された。
ドキドキする年ではない。
しかしながらただただ官能的だと思った。
余命いくばくもない男女が名も知らず、互いの人生が交差する瞬間に。
多少の痛みは慣れた年頃。
「はい。終わった」と
鏡を見せてくれる。
痩せてくたびれた老婆の私に意味のないような二つの平仮名。
漢字二つで名を成した我が息子。
元の夫の漢字は残したくない。
あの世への土産に息子とわからぬようにカナで持って行く。
あの子の名前の由来くらい知りたかったなと思う。

7/20/2023, 11:40:54 AM