結城斗永

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※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。

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タイトル『幸せの基準が壊れた日』

『今日も一日、幸福な生活を心がけましょう』
 手首につけられたデバイスが、高らかな人工音声とともに朝を告げる。国が掲げる『幸福度向上政策』の一環だ。
 デバイスが示す幸福度は53%とやや良好。実感はともかくとして、今日も平均より少しだけ幸せな僕の生活。
 朝の日課は軽いジョギングから始まる。癒やしの音楽を聴きながら栄養バランスの取れた朝食をとる。
 政府が推奨する幸福度を上げる朝のルーティン。たったこれだけのことで、僕の幸福度は3%も上がる。

 朝の電車内はとても平和だった。幸福度を上げるために徒歩や自転車での通勤者が増えたからか、政府が実施した分散出勤政策が功を奏したのか、立っている乗客はいるが、人の群れに押し潰されることはなくなった。
 車内で二人のサラリーマンの話している声が耳に入ってくる。
「今朝は80%いってて気分がいいよ」
「俺なんか60%切っちゃったよ」
 男がため息をつくと、もう一人の顔に同情の色が浮かぶ。僕は思わず手首を隠すように腕を組んで身を縮める。
 僕の数値は世間的に見れば幸せとは言えない。ただ、衣食住には困らず、仕事もあり、体もいたって健康。これを不幸だと呼ぶのも何だか居心地が悪かった。
 車両の端では若者が老人に席を譲り、デバイスの数値を見て笑みを浮かべている。僕もああやって善行でもすれば、数値をもう少し上げられるのかな。
 
 会社に着いてすぐ慌ただしい時間が始まり、あっという間に午前中が終わる。社食の掲示板に張り出された幸福度別のお薦めメニューと、デバイスの数値を見比べようと顔を落とした時だった――。
「あれ……?」
 何も表示されていない画面に目を疑う。いつからだろう、全然気が付かなかった。再起動してみても表示は変わらない。
「故障かな……」
 周りを見渡してみても、他の社員はいつも通り手首を見て一喜一憂している。こんなことは初めてだったが、僕はとりあえず、今朝の数値をもとに大豆ハンバーグ定食を注文し、食後はいつものように読書と仮眠に充てた。これで数値はいくらか上がっているはずだ。
 しかし、いまの僕にそれを確かめる術はない。基準がなくなるだけでこんなにも不安になるものなのか。
 
 特に急ぎの仕事も無かったので、午後は半休をとって、デバイスの修理依頼のために役場へ出向いた。
 役場の待合所では数人が整理券を手に座っている。
 僕の番号が呼ばれたのは10分ほど経った頃だった。窓口の担当者にデバイスを手渡し、状態を確認する。いくつかの質問をされ、修理は半日で終わり、明日の朝には受け取れると告げられた。半日ならと代用デバイスは受け取らなかった。
「計測されていない間、幸福度は下がり続けますから、明日はなるべくお早めに来てくださいね」
 担当者は最後にそう一言付け加えた。

 思いのほか早い手続きに、予定のない午後が訪れる。
 空は晴れ渡り、冬にしては暖かい気候だった。
 何をしようかと考えながら、近くの公園のベンチに腰をかける。目の前の芝生でボール遊びをする少年と、その姿を微笑みながら見つめる母親の姿。
 ――僕は何をしているときが幸せなんだろう。
 そんな思考がふと頭をよぎる。今朝まで幸せの基準は僕の手元にあった。平均より少し上の幸せ。それがどんな幸せなのかは、正直よく分からない。幸福度が高い人が何に喜び、低い人がどれほど苦しんでいるのかも。
 鞄から本を取り出し、昼休みの続きを読み始める。文字を追っていく内に、まぶたが重たくなってくる。コクリと首が落ちるたびに、ページの頭を何度も読み直す。

 足元に何かが当たる感触がしてふっと顔を上げる。僕は足元に転がるボールを手に取って、こちらに駆けてきた少年に手渡す。
「ありがとうございます!」
 少年はボールを小脇に抱えて頭を下げると、照れくさそうに母親のもとへと戻っていった。
「そろそろ帰ろっか」
 母親と並んで公園を去っていく少年が、途中こちらを振り返り小さく手を振る。
 手を振り返した時、ふと母親と目が合い、笑顔で軽く会釈をされる。たったそれだけのやりとりに、何故か心が温かくなった。

 呼吸を整えてベンチから腰を上げる。夕暮れの街を歩けば、人々の優しい笑い声が聞こえてくる。どこからか漂う焙煎の香り。気持ちよさそうに眠る猫。朱く染まった夕焼けの空。
 街に流れるゆったりとした時間が、僕の心に微かな熱を持って触れる。
 
 空席の多い電車の座席は、柔らかくて温かかった。吊り革が小さく揺れると、床に落ちた影も同じリズムを刻む。窓の外に目をやると、ミニチュアのように見える街の中を車や人の影が忙しなく動いている。
 ふと心に落ちる温かさを、すべて『幸せ』と呼びたくなる。でも、明日の朝にはこの幸せも数値になってしまうのか。そもそも数値にすらならないのかと思うと心の奥がぐっと切なくなる。

 僕は今ここにある幸せを忘れたくなくて、軽くなった左手をいつもより大きく振ってみた。それだけで、少し幸せが大きくなった気がした。
 
#幸せとは……

1/5/2026, 8:08:59 AM