針間碧

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『見つめられると』

私は今、普通の精神状態じゃない。そんなのは私が一番よくわかってる。なんたって、私は先ほど人を殺してきたのだから。
 夕方の六時。それが友人との約束の時間であった。その友人と連絡は定期的にとっていたが、遠方に住んでいるため会うのは久しぶりであった。だから、普段の私なら、いつも通りに会って、何気ない会話をして帰る。それだけになるはずだった。でも、今日は違う。私は、さっき人を殺してきてしまったのだ。
 別に殺したかったわけではない。電車に乗ろうとしていて、目の前の人の様子がおかしいからなんとなく見つめていたのだが、フラフラと前に進んでいて、気が付いてしまった。この人は自殺をしようとしているのだと。私は、止めるべきだった。でも、声も出なかったし、手足は一切動かなかった。何もできなかった。気づけば目の前にいた人は、駅のホームから、消えていた。
 一瞬の沈黙。後の度重なる悲鳴。凄惨な現場を前に、私は動くことができなかった。周りの人の誰かが私にぶつかってきて、はじめて足が動くようになった。私は黙って踵を返して、ホームから離れた。
 目の前で人が死んだわかっていたのに何もできなかった声をかけるべきだったのにどうして何もできなかった私は……。私は、人殺しだ。
 この後は、正直帰りたかった。友人には申し訳ないと詫びて、寝て忘れてしまいたかった。でも、滅多に会えない友人との約束を反故にすることも、私にはできなかった。重い足を引きずりながら、私は約束の場所へと向かった。
「お、久しぶり~!」
「久しぶり……」
 友人は変わらぬ笑顔をこちらに向けてきた。いつもなら私も嬉しくなって笑い返すが、今はとてもそんな気分にはなれない。私は何とか取り繕った笑顔を返した。
「え、大丈夫?なんか顔色悪いけど……」
「大丈夫、昨日夜更かししちゃって……」
「…そっか!じゃあご飯食べに行こう!この辺に行ってみたいバーがあるんだよ」
「本当、相変わらずだねぇ」
 何とか誤魔化せたようだ。そのまま友人についていき、目的のバーに着いた。バーにはカウンター席とテーブル席があり、友人は真っ先にカウンター席へ向かい、席についた。私はその隣に座り、メニュー表を眺める。今は何を飲んでも味がしそうになかったが、よく私が頼んでいるカクテルの名を口にした。
 友人との話は、全く頭に入ってこなかった。なんだかんだアルコールを口にすれば忘れられると思っていたが、そんなこともなく、なんなら先ほどの出来事がフラッシュバックし始めた。私は、人を救えなかった。
「それで……。……本当に大丈夫?」
 友人は流石におかしいと思ったようで、こちらを見つめてくる。こういうときの友人は厄介だ。人の機敏に対して、妙に鋭くなる。私は友人の方を向いていたが、こちらを一心に見つめてくる友人の目に耐えられずとっさに顔をそらしてしまった。
「こっち向いて」
 そらした目を、元に戻す。友人の目は、変わらずこちらを見ていた。
「ねえ、何があったのか、問題なければ教えて」
「…………」
「……はぁ。言いたくないのならいいよ。別に強制はしない」
「…………」
「でも、これだけは言っておくよ。私は、君の味方だから。話ができるようになったら教えて」
「……ありがとう」
 私は、そうとだけ返した。知っている。このお人好しの友人ならそう言ってくれることは、わかっている。だからこそ、私は言いたくなかった。友人なら、絶対に受け入れてくれるから。私の罪も、何もかもすべて一緒に受け入れてくれる。だからこそ、言うつもりはなかった。
 友人は、一切の曇りもなくこちらを見つめ続けている。友人の瞳には、私がうつっていた。お願い、やめて。これ以上私を見つめないで。見つめられると、私の醜さが浮き彫りになってしまう。だから、お願い。私を見つめないで。私を助けて!

3/28/2024, 2:19:48 PM