私の生家は私の両親が結婚して其処に世帯を構えるずっと前 ... 遥か昔その地は川だったらしく ... ... ... 私が生まれたのが(1970/昭45)でほぼ2年置き4人兄弟姉妹の末っ子で ... 親父は現在83歳(1940/昭15)、お袋は85歳(1938/昭13)なので ... 真珠湾攻撃(1941/昭和16)から日本の無条件降伏(1945/昭20)より以前かと思われるが生家から2km弱の場所に古い赤煉瓦造りの少々小ぶりな橋が今も在るのだが戦時中在日朝鮮人民間人(成人男性に限ると私は聞いたが ... )の斬首処刑場で斬り落とした首と身体はそのまま川面に流血と諸共廃棄したらしい。私の生家はその後終戦を経て埋め立てられ区画整理されて抽選販売された土地を購入して家を建てたらしい。先日この事について徐に且つ懇々と両親と話をした訳だが .... 私のこれまでの人生の辛酸痛苦に満ちた悶絶の途の因が捲れ解き明かされるようで泪が込み上げ少し嬉しくなったりした。生家はその当時の川の水嵩ならすっぽり屋根まで浸かる川底に近い辺りの位置だったらしい。沢山の朝鮮人の血が混ざる川水が流れ続けたのであろうしその血の混ざる川水を吸い込み、肥やしにして土地は再生し植物も育ったのである。ちなみにやはり埋め立てに用いたのは東京の産廃物だったらしいが処理の詳細に現代との差異は大小あるとは思われるがまあ同じである。私の育つ場所として神仏が私に与えたのはそうした土壌だったという事だ。ちなみに生家から20mの離れた辺りには馬頭観音地蔵がお奉りされているのだがこれまた付近は屠殺場だったらしい ... 。
先祖の因縁と言われたりもする首から上の病気も沢山患った。斜頸手術に巨大化してしまった扁桃腺切除では小2の幼さで口からハサミを入れられて喉の内側の肉を斬り刻まれた。鼻は蓄膿気味で呼吸は常に不安定。中2の時には学校教室内でふざけ合っていた同級生の上履きが左目に被弾で早期発見により異例のほぼ完治だったが本来不治の網膜剥離にもなった。人間関係もこんな途切れ途切れの迷い途を歩いているからかまんまと全滅級に全く上手く渉れず除け者、鼻っつまみ、いじめられっ子、使いっ走りみたいな事もされた時期も少しだがあったりした。
素晴らしい唯一無二の本物の信仰に出逢う事が出来、全てが180度好転したがこんな私の人生の中で唯一得意に思っていた自慢の妻との和合が崩れたが仕事というか収入等が倍以上になった為妻の顔色は二人の愛娘のおかげもあり良好だが私自身は毎日死ねるタイミングを窺い待機しているという現況であったのだが、この、土地に於ける史実の齎し得た事々を辿る気に救われて今一度今世この世に僅かながら期待してもいいかも知れないと思た。カティーサークを呷りながら虚ろな意識で寝転がりながら是らヲ記し垂らしながら癒し無き休日の気休めに変えてみたのだがぼちぼち手を止めて続きは酒に聴かせるとします ... 🥃🍾。
7/7/2023, 5:24:58 AM