→短編・何でもない日、三日月と白茶
梅雨の晴れ間に、天蓋ベッドのエーテル布を天日干ししました。お客様に良い眠りをお届けする大事な作業です。
ベッドを整える作業は僕と息子の2人がかりとなります。脚立に上がり4箇所のフックに布をかけるのは僕が行い、息子は下で布をさばきます。
ん? 布が重い。その違和感に僕は下へと注意を向けました。
「引っ張ってませんか?」
「きゃあ!」
―コロン
一足遅かったようです。彼の小さな手が掴んでいたエーテル布から外れてしまい、尻餅をついてしまっています。
「引っ張ってませんよぅ。風がいたずらしたんです」
エーテル布はとても薄くとても軽く、空気を巻き込みやすいのです。不可視の天体構成元素に可視光線を通すことによって織った布の特性だと父から聞いたことがあります。
僕は脚立を降りて、彼に手を貸して立ち上がらせました。「困った風ですね」
息子はズボンのお尻を何度も叩き、僕を無視しました。恥ずかしかったのでしょう。ほんのり染まるその頬に彼の気位が現れています。
「そろそろお茶菓子を用意しましょうよ」
何事もなかったかのように彼は次の作業の話をしました。やれやれ、やっぱりプライドの高い子だなぁ。
僕たち一族は代々宿屋を営んでいます。僕の父もそのまま父も、そのまたまた父も、ここでお客様をお迎えしました。そしていつでも従業員は一人か二人と決まっています。
僕は息子が来た日のことを覚えています。ちょうど2年前のことです。6月の梅雨空が一瞬だけ晴れた日、雲のフィルターが淡い日差しを作っていた日に、小さな彼は宿屋の戸口に立っていました。
「はじめまして、お父さん。僕が来ました」
僕たち一族は、時代の変わり目に新しい子がどこからかやってきます。僕もそうでした。三日月の夜にこの宿屋の扉を叩きました。そしてどこから来たかは誰も覚えていません。
僕の知らないことを、幼いながらも彼はたくさん知っています。彼の価値観が新しい風を運びます。
彼は宿屋の業務をあっという間にDX 化しました。IT ビッグウェーブです。新しい時代かくやあらん。お客様のおもてなしに多くの時間を使う余裕が生まれました。
僕たちは、いつお客様がいらしても良いように、数種類のお茶菓子を用意します。雲母の色紙に玻璃の黒文字。レース陶板、オーロラの器。茶器もさまざま。薄氷ガラスのコップ、深海土の珈琲カップ。先代たちが方々から集めた品々はどれを取っても唯一無二の美しさです。
「お菓子の用意が終わったんで夜の灯りの手配をしようと思うんですけど、釣鐘草に灯りを仕込んでもいいですか?」
「素敵ですね。夕顔にはまだ早いですからね」
僕の答えを彼は聞いたでしょうか? それともただ尋ねただけなのかな? 彼の姿はとっくに炊事場から消えていました。息子は時間と効率を大事にしています。新しい時代の人だなぁと、のんびり屋の僕は感心しっぱなしです。
「さてと――」
僕も動こう。庭や玄関を掃き清める。一日に何度も。心を込めて。
この宿屋は、多くのお客様が訪れるような場所ではありませんし、いつおいでになるのかも不明です。何かの拍子、例えば商店街の路地横や、雨の後の水たまりの中、夢の狭間、そんなところにある宿屋です。ここを見つけたお客様はおっかなびっくりいらっしゃいます。
もうすっかり夜更けです。僕たちは事務所に腰掛けて夜のおやつタイムを取っていました。
「今日はお客さま、いらっしゃいませんでしたねぇ」
そんなことを言いながら、息子は三日月きんつばにかじりつきました。このきんつばは先代である父のお気に入りでした。三日月の形をしたそのお菓子をさも大事そうに食べる彼の姿を今でも思い出します。これといって特徴のない普通のきんつばなのですが、まるでそのお菓子が万能の霊薬であるかのように神妙な顔で味わう父を僕はよくからかってものです。
「まだわかりませんよ。すべてはお客様次第ですから」
僕は白茶を啜りました。このお茶は6月の晴れ間茶です。文字通りとても色の薄いお茶です。柔らかい香りと甘い風味が僕を癒します。6月の日差しの中に立つ息子を思い出させる、僕にとって特別なお茶です。
「そのお茶、好きですねぇ。その真剣なお顔!」
僕の胸中などお構いなしに、息子がクスクス笑っています。
その彼の背後にキラリと何かが光ったのを、僕は視界に捉えました。それは窓の向こうの夜空にかかる三日月でした。僕の脳を稲妻が打ちました。
「あぁ……!」
「どうしたんです?」
僕の感嘆の呟きに息子がキョトンとしています。僕は再び6月の晴れ間茶を口に含みました。父と三日月きんつばを思いながら。
束の間、僕は息子にこの発見を話すか否かを自問自答しました。
「何でもありませんよ」
息子には内緒にしておきましょう。
いつか彼にも訪れる何でもない一日のために。
テーマ; 日差し
7/2/2024, 6:12:43 PM