気がつけばいつの日からか、なんだか毎日が曖昧になっていた。
過ごす日々と比例するように記憶はぼやけていき、思い出すことが難しくなった。
自分が何者でどんな人生を歩んできたのかもわからなくて、大事なものがずっと思い出せないままで、ハッキリとした明確な自分は小さな箱の中に閉じ込められるような感覚だった。それでも、いつも閉じ込められた私は頭の奥底で叫んでいるのに全てがぼやけて曖昧になっていくばかりで私は時期に正気までをも失くしていった。
家の中には常に知らぬ女性がいた。
何故か、私の身の回りの世話をし、何故か私によく話しかけてきた。
時折、女性の知り合いが家に訪ねてきて、何故か私を"お父さん"と呼びながら小さな子供を私に紹介しては、"お父さんの孫だよ"と言ってきた。
私に家族などいないはずなのに。
いや、でも昔は居たような気がしなくもなかった。
でも、思い出そうしてもモヤがかかった輪郭のはっきりとしないものが頭に浮かぶばかりで、最近は考えるのもめんどくさくなって思い返すことはやめた。
思い出せないから私は全てを否定することしか出来なかった。
訪ねてくる人々は私が何者かと聞くと口々に言った。
"あなたの息子だ。"
"あなたの娘だ。"
"あなたの孫だ。"
私は毎日何故か私の身の回りを世話してくれる女性にも毎日あなたは誰かと尋ねた。彼女が答える言葉も訪ねてくる人々が言う言葉と似たものだった。
"あなたの妻だ。"
でも、そんなこと言われても私は思い出せなかった。
そもそも、私は自分が何者かすらもわからなかった。
毎度名乗られても、なんだか馴染みのある名前のような気がしても、はっきりと記憶が蘇ることは無かった。
だから、
"そんな人は知りません。"
そう言うことが精一杯だった。
そんな毎日がはっきりとしないモヤにかかったような日々を過ごしていた私だったが、ある日大勢の人がうちを訪ねてきた。
知らぬ人間達は、集まると次第に何故かみんな宴会を準備するようなことを始めた。
食卓のテーブルに多くの料理が並べられ、顔も知らぬ人達は当たり前のようにそれを囲んで座った。
混乱している私を他所にいつも何故か私の世話をしてくれる女性は私に笑いかけた。
「今日は、あなたの誕生日なんです。だから、みんな集まってくれました。」
誕生日。あぁ、そうなのか今日は私の誕生日なのか。
なんとなく、腑に落ちないところもあるけれど、誕生日だと言われて悪い気はしなかったから私はそうなんですか。と返事をした。
すると、目の前の彼女は笑いながら少し悲しいような顔をした。
知らない人なのに、彼女の悲しい顔を見るとなんだか私は自分まで傷ついたような気持ちになった。
不思議だった。
食事を食べ終わると、食後のデザートとしてケーキを出された。
歌を歌われながら、蝋燭を消すよう催促されて、消すと周りは口々に私の名前を呼びながら誕生日を祝ってくれた。ネームプレートには"85歳のお誕生日おめでとう"の文字があった。
みんな知らない人だったが、不思議とやっぱり悪い気はしなかった。
ケーキを食べていると、先程誕生日だと教えてくれた女性が何かを首に巻いてくれた。
見てみると、それは手編みのマフラーだった。
渡してくれた彼女を見やると、彼女はなんだか、恥ずかしそうな顔をしていた。
「いい出来じゃなくてすみませんね。年取ると編み物も長く出来なくって。不格好だけど受け取ってくださいな。」
なんだか、心が暖かくなる心地がした。
それに、照れ臭くするその顔には見覚えがあった。
遠い昔に、同じように手編みのマフラーを貰ったことがある。
同じように彼女から。
私は久しぶりに自分の記憶に確信を持った。
気づくと口から名前を知らないはずの彼女の名前が何故か出ていた。
「ありがとうございます。洋子さん。」
そう言うと、私にマフラーをくれた彼女は大きく目を見開いて、暫くすると俯いて泣き始めてしまった。
「やっと。名前を呼んでくれた。思い出してくれた。」
彼女は泣いて震える声でそう言っていた。
その時、私はまだハッキリとはよくわからなかったが、なんだか過ぎ去った日々の記憶を取り戻し、大切なものを思い出せてくるような気がしていた。
―――忘却の病
お題【過ぎ去った日々】
3/9/2024, 4:03:24 PM