もし、私がこの世で最も完全な人間であるとしたら。
誰も私を否定できない。だれも私を叱れない。
誰も、私の間違いを指摘できないということは、
私は私の間違いを、
自分で見つけて、
自分で正さなければならないということ。
だから私は、誰にも認められることは無い。
私の問題は、私の中で全て完結してしまう。
私の正しさは、誰かにとっての苦痛。
なぜなら、間違いを犯した人にとって、自分の間違いを認めることは、不可能に近いからだ。
罪を犯したことを認め、直ぐに反省できるなら、
その人は最初から罪を犯さない。
最初から罪を犯すという覚悟をして、彼等は罪を犯している。
ならば罪人を裁く意味はあるのだろうか?
人は恐らく、死ぬより辛いことを経験する。
たとえば、生まれた時からもっている、自分の命より大切なものを失った時、人は絶望する。
すぐに立ち直れるのなら、それはその人にとって大切では無いものだった。
大切であればあるほど、その人が地獄から這い上がることは難しいだろう。
地獄を耐え抜いた人に、報酬はない。
失ったものの大きさを目の当たりにして、空虚な心のまま生きていく。
誰かがそれを見ていてくれているなら。
誰が見てもその人は命より大切なものを失ったと、その失った心を埋めてくれようとするだろう。
けれど、失った場所に、他の何かが居座ることは、許されるものだろうか?
それこそ傲慢で罪深いことだ。
どうして自分が、その人の心を癒せると思えるのだろうか。
誰かを助けようとした、その者こそ、裁かれるべきだと言う私を、誰もが拒絶するだろう。
私こそが罪人だと裁くかもしれない。
それだけ人は愚かであり、私はその姿を見ると悲しくなる。
それが鏡であったとしても。
私は自分が正しいと同時に間違っていることを理解する。
けれど、だれも私を間違いだと指摘しない。
私は傲慢であることをゆるされているのだろうか。
それとも、いつか、私の居場所はここではないと排除されるのだろうか。
わたしは、ここにいてもいい?
だれも首を横には振らないだろう。
そんなことはないと言うだろう。
私はそれが本心なのか嘘なのかを、判断することはできない。
それを知るのは、この命を絶った時。
私がそこにいなくても、人々が涙を流してくれるのなら、私はようやく信じることができるだろう。
しかし、私は私が死んだあとも、皆が笑顔でいてくれることを望んでいる。
私はひとりでいい。
ひとりがいい。
ただ生かされているだけの存在でいい。
生きているだけで、罪を償っている。
そう思っていないと、私はこの地獄を耐えられない。
7/23/2024, 7:20:04 AM