『凍える朝』
酔っ払って彼女に手を出したことは、曖昧で散り切れになった記憶にも残っている。
ソファで不遜な態度で足を組んだ彼女の目の前で、俺は正座を余儀なくされていた。
違う。
彼女は俺に座るよう促しただけで、座り方までは要求していない。
だが、彼女の態度、口調、俺を見上げる視線の圧力。
彼女は全身で強めの不機嫌を撒き散らしていた。
リビングに満ちた唐突ともいえる緊張感は、とてもではないが横並びに座って腰を抱けるような雰囲気ではない。
「友だちとハロウィンを楽しむことは聞いてた」
静かに、冷ややかな声が俺の頭上に刃となって突き立てられて、背筋が凍った。
昨夜のハロウィン、俺は友人に誘われて仮装して酒を飲んだ。
発色のよさそうなスプレーで髪の毛を金色に染めて、ツテを頼りにチャラそうな服とジャラジャラとした靴を借りる。
俺は生まれて初めてコンタクトにチャレンジして、「チャラ男」というコスプレをしたのだ。
意外とウケて盛り上がって、写真まで撮った記憶がある。
「だけど、外泊するつもりだったなんて知らなかったな?」
はい?
「なんです、それ?」
「ふーん?」
しまった。
ひとつ、彼女の地雷を踏み抜いてしまったことに気づく。
踏んでしまった手前、今さらどうにかなるわけでもなく、黙って冷や汗を流すばかりである。
「じゃあ誰の家のつもりで、深夜にインターフォン鳴らしてきたのか教えて」
「んんんっ!?」
全く身に覚えがない。
しかし、彼女は酒で記憶が飛んだことを言いわけにさせるつもりはないらしく、容赦なく畳みかけた。
「飲みすぎて電車揺れが気持ち悪くて限界だから泊めろって、玄関前で騒いでたよね?」
この言い回し……。
ある可能性にたどり着いて俺は顔を上げた。
「あの、俺、もしかして……浮気とか、疑われてます?」
「あ? 疑ってきたのはそっちだろ」
「え」
心底、鬱陶しそうに吐き捨てた彼女の言葉に耳を疑う。
彼女が、浮気?
は?
させるはずがないが?
だからといって、彼女が嘘をつく理由もなかった。
「なんで私がここにいるかとか本命がどうとか浮気がどうとか、いわれのない疑いをかけてきやがって。ここは私の家でもあるんだよ。挙げ句の果てに、今さら俺なしで生きていけると思ってるのかとか図々しいことを延々と熱弁してきて何様のつもりだ? この酔っ払い」
「はあっ!?」
信じられない言葉の羅列に目眩がする。
無自覚に人をたらし込んでは無遠慮に行為を切り捨てる人だ。
そんな彼女に対して嫉妬に狂うことはあっても、不貞行為を疑うなんて酒に飲まれてもないと思っていたのに。
酒に酔って記憶が混濁していたとはいえ、真面目で几帳面な彼女を疑った自分自身に腹が立った。
「だから、誰の家に行くつもりだったのかなって」
「いや、それは本当に……」
わからない。
と、素直に白旗を上げかけたところで、俺がハロウィンでチャラ男の仮装をした理由を思い出した。
「ああああぁぁっ!?」
だが、これを口にしたら絶対に彼女に怒られる。
怒られるだけですめばマシなほうだ。
「なんだよ」
素直に言葉にするか迷うが、彼女は容赦なく俺を促した。
ごまかしたら軽蔑されて、暴露したら逃げられる。
どちらにしても詰みな状況のなか、俺は後者を選択した。
「……あなたを寝取ってみたいという欲求が爆発したのかもしれません」
「……」
これが、俺が「チャラ男」のコスプレをしようと思い立った動機である。
「とはいえ、あなたに浮気させるとか解釈違いも甚だしく冗談にもなりませんし、かといって俺が本命ではなく間男とか耐えられる気がしなくてどうしたもんかなと。でも、間男も本命も俺がやればいいんだってひらめいて、いかにも恋人を寝取りそうな「チャラくて悪さしそうな男」の格好をしてみたんです」
ひと通り言い終えて、チラッと彼女を見る。
梅干しみたいに顔にシワを寄せてため息をついた。
「……本当にそんなくだらない理由ひとつで、人の体に好き放題しゃぶりついてきたのか……」
「はああぁぁっ!?」
酔っ払って彼女に手を出したことは、曖昧で散り切れになった記憶にも残っている。
変に乱れた服やら、体の気怠さやら、俺自身の体に違和感が刻まれていた。
だが、好き放題とか、しゃぶりついたとはどういうことだ!?
「どうしてくれんだよコレ」
恥ずかし気もなく長袖のシャツを脱ぎ捨てた彼女の姿に、俺は目を見張る。
上半身のいたるところにキスマークと、肩には噛み跡までついていた。
え、うわっ!?
これ、全部!?
えぐっ!?
「あの、これ……。本当に俺がやったんですか?」
「ほかに誰がいると?」
ソファに置いているクッションを投げつけられた。
「それはそうですね?」
いてたまるかという話でもある。
「あの、痛く……なかったですか?」
「はあ?」
「すみません! 痛いですよね!? ごめんなさいっ!」
「……見た目、変わってもれーじくんはれーじくんだし、そこは大丈夫」
シャツを着直したあと、彼女はギロリと俺を睨みつけた。
「ただ、酒が入ると本当にしつこい! ガチで酒の飲み方には気をつけろっ!」
「すみませんっ!」
「次はつき合わないからなっ!?」
「はいっ! …………え? つ、つき合う?」
「優しくするからこの姿の俺に寝取られろとかなんとか、ぺしょぺしょなりながら懇願された」
なんで受け入れちゃうんだよ……。
覚えはないが、やりかねない自分自身の行動に顔面を両手で覆ったのだった。
11/2/2025, 9:30:22 AM